ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

妬み

2020-01-24 | 人間性

The Return of the Prodigal Son (1773) by Pompeo Batoni

 

 

 

 

「正像末和讃」『註釈版聖典』六一七頁に親鸞上人のこんな言葉が書かれている。

悪性さらにやめがたし  こころは蛇蝎のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる 

悪い本性はなかなか変わらないのであり、それはあたかも蛇やさそりのようである。だからたとえどんなよい行いをしても、煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行というものである。

現代訳:堀祐彰(浄土真宗本願寺派総合研究所)

 

これは、キリスト教新約聖書新約聖書ルカ伝第15章11-32節の「放蕩息子」についての話に出てくるその兄の思考への戒めにも通ずる。その兄は今まで父親に誠実に従い、真面目に畑仕事をし、その日の作業を終えて帰宅すると、音楽が聞こえ、なにやら祝宴が開かれているらしい。それが、今まで放蕩で身を崩していた弟のためだと知ると、彼はたちまちその弟への妬みを抱く。彼の勤勉さによってすでに牧場の子牛も、着物も、家の引き出しの中の指輪もすべて自分のものであるという事実さえ、そして今後も報われるという事実も、一瞬のうちに忘れてしまった。

 

勤勉さにかけては非常に秀でていたのにもかかわらず、この兄はここで一つの欠点を露呈した。それは死んでいたに等しい弟が生きて帰還したことを喜び、自分の競争相手が帰って来たわけではないととらえられるほどの寛大な度量の広さを備えていなかったのだ。そして放蕩を重ねて帰宅した弟が、真面目で勤勉な自分への特権をすべて奪うのだ、と実際にはそうではないのにも関わらず、そう感じ、疑心に満ちた。

 

聖書の人物でなくとも、現代社会でも、満ち足りた生活を送り、自分の財産に満足していた人は、だれかが同じように幸運をつかむというだけで、急に不満に思い、実際にはそうではないのに、自分への祝福が少なくなると勘違いをすることが往々にしてある。チョーサーのカンタベリー物語に出てくる牧師が嘆いたように、妬みは蔓延し、あるいは、古いデンマークの諺のごとく、「妬みが熱であれば、世界中が病気になってしまう」のである。

 

覚えておくべきは、神は一人の子どもに対して哀れみを示すために、もう一人の子どもへの愛を取り消したり否定したりする必要がないことである。彼はどちらの息子にも惜しみなく与えている。

 

教育者で宗教的指導者であるジェフリー・ホランドは、その話のなかで、言語学者のヘンリー・ニューエンによれば、英語のGenerosity(物惜しみしない、寛大なこと)は、家系図を意味する言葉Genealogyと同じ語源のラテン語"genus"から派生していると言う。それはつまり「同じ生まれ、または種類、同じ家族あるいは性別」という意味があり、自分が親切にする相手は、実は「赤の他人」なのではなく、自分自身の家族なのだ、と思い起こせば、人々はもっと容易に寛大になれ、惜しみなく与えることができる、とホランドは促す。

 

そしてお互いに祝福を受けられるように励ましあうことこそが、究極一人一人の心の安寧をもたらし、平和への一歩となるのではないだろうか。

 

 

 

【注・補記】聖書の「放蕩息子」についての話:ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。。。

そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

ー新約聖書ルカ伝第15章11-32節)ウィキより引用

 

 

その放蕩息子の現代版物語をどうぞ。

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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親と子 (miyan)
2020-01-24 14:44:18
いつも素敵な発信ありがとうございます。

私も今回のお話が親の立場の自分でしたら
なにがどうであろうときっと....抱きしめると思います。
親は分け隔てなく子供と向き合いたいものですよね。
そんな風にいつも考えてはおりますが。
子供の立場からも考えてみる必要がありますね。
いつもありがとうございます。

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