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「天使の木」
クリスマスの季節は、街を行く人々や、商店にいる客たちも、忙しげではあってもこのシーズン特有のちょっとした幸福感に笑みを浮かべたり、店先で見かける救世軍のケトル(赤い鍋)へ、気軽にポケットの小銭を入れる。そんな中、家族や友人や親しかった人を亡くした悲しみに沈んでいる人もいる。友人の一人も、そうだった。彼女の小さな経験をここでお話ししたい。
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「ハッピーホリデー!」私が自動ドアから店内に入ると、陽気なウォルマートのグリーター(入り口で客に挨拶する係の人)が大声で叫んだ。エルフの帽子が彼の頭にちょこんと陽気に乗っている。店はクリスマス・シーズンに向けての飾り付けである。通路には赤いガーランド(ひも状の花や飾り)が張り巡らされ、きらめく光に包まれたプラスチックのサンタが飾られ、入り口の真正面には大きくて背の高いモミの木があり、その枝には色とりどりのクリスマスの装飾品が飾られていた。
クリスマスがどんどん近づいてきて、周りの買い物客はみんな楽しげで元気そうだった。私もそうなりたいと思っていたが、私のギフトリストは例年よりも1つ名前が消えていた。父が亡くなり、その損失がわたしの考えの全てだった。
医師が69歳の父に白血病と診断した後、父は病床に伏すことを拒否した。彼が最後の息を吸うまで、父は私たちを元気に保とうとして笑顔を続けていた。自分がもっと良い場所に行くことを知っていると父は言ったが、私たちと一緒にここより良い場所があるとは私たちは想像することができなかった。
「プレストンは私が知っている中で最も幸せな人です」と父の友人はよく言っていたが、その言葉は正しかった。父の笑顔がなかった時など思い出せなかった。あの笑顔は父の寛大で、与える精神から来ていたのだった。たとえ父が自分の何かをいくつも犠牲にしてきたとしても、父は他人を助けることに純粋な喜びを得ていたのだった。父は神を深く信じ、人々を最も信じていた。
そんなことを思いながら、ショッピングカートをグリーターのそばを押しながら、リストを見下ろすだけが、自身の平静さを保つのに精一杯の私だった。私はいつも父へのプレゼントを買うのが大好きだった。父は私が彼のために選んだシャツや靴をとてもありがたがったのだった。そんな父の姿を見ることは2度とない。
私はクリスマスツリーの前で立ち止まった。飾りの間の枝から白いタグがぶら下がっていた。「天使の木」(老人施設や孤児院などからの入居者の希望を書いたタグを吊す木)の一つだと思った。買い物客はタグを選んで、入居者への贈り物を買うことができる。私は近寄った。
目の前の看板が目に入った。 「お年寄りのためにサンタになりましょう。」 私はそのプログラムについて聞いたことがなかった。自分が何をしようとしているのかを知る前に、私は手を差し伸べてタグをつかんでいた。
要望するギフト:シャツ、サイズXL ;パンツ、ウエスト42 ;靴または靴下、サイズ12 –12半
シニアの名前:プレストン
私はカートをくるりと回して、紳士服売り場に向かった。父と同じ名前(!!)で同じサイズ(!!)のお年寄りへのプレゼントを見つけなきゃ!
イエス・キリストの至福の教えの中で最も美しいものの1つは、次のとおり。「悲しむ者は幸いである。彼らは喜びの精神を受けるからである。」父を亡くした悲しみに沈んでいたこの娘の私は、この出来事でその真実を発見した–すべてウォルマートでのある日の午後に!
信仰は特別の日にだけ実践するのではなく、日々の暮らしに溶け込ませ、少しずつ実践に向けて生活することで、知らず知らずのうちに自分が学んでいることに気がつくようです。ただキリスト教社会に生まれ、育った方々は、そのDNAにまるで因子があるかのように、ごく自然に親切や助けをさりげなくできる、ということは長年の生活で見聞きしてきました。だからと言って、キリスト教徒以外の方にはそうしたことがない、というわけではなく、結局ひとりひとりがどのようにして人生を運んでいくかによるのでしょう。究極、黄金律は、信教に関係なくともありえますよね。
アメリカの美しい愛の精神は、日本人には真似のできない深い信仰心が感じられます。