「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(4)

2016-07-07 22:51:00 | NPB
 前段の話が恐ろしく長くなってますけど、これくらいやっておかないと本質には迫れないと思うので、もう少しお付き合いください。
 例によって、主観入りまくり、あと記憶違いがあるかも知れません。
 あと、基本、当時の選手は敬称略になりますので、ご容赦ください。

 とりあえず、西武の黄金時代突入、阿波野、西崎の活躍もあって、世間の目が僅かながらもパ・リーグに向いてきた80年代後半。

 1988年、日本のプロ野球界は大きな転換期を迎えます。
 そう、東京ドームの開業です。
 
 今でこそ、からくり屋敷と呼ばれ、ホームランが出やすい球場の代名詞となっておりますが、当時としては革命的なサイズを誇る、夢の全天候型スポーツ施設とでした。
 ノリとしては殆ど、観光スポット扱いでした。
 後年(日本ハムが居た頃)まで、修学旅行のコースに組み込まれていたりしました(当時のハム的には、修学旅行の団体はドル箱だった)。
 ガキの自分の私にとっては、入場料は高くなるし(後楽園なら確か指定Sが2700円だったのが、ドームだと指定Cが2900円という)、食い物も高い上にマズくなったし、あまり良いことは無かった気はしますけど。
 そして、讀賣とハムで同じ球場を使っていながら、待遇差があったのは、近年、どっかのテレビ番組で岩本勉氏が散々語っているので、割愛。
 選手云々も問題でしたが、球団に対する扱いの極端な差も後の移転に繋がってきます。
 後楽園時代も云われてましたが、8月の死のロードを強いられる日程ですね。
 当時、都市対抗野球が8月実施だったのと、ドームの管理会社による讀賣優先日程により、その死のロードっぷりは、阪神よりと互角以上のレベルになっとりました。(そりゃあまあ、大家さん的に稼げる方が優先になるのはわからんでもないですが、だからといって「お前がおるからもっと稼げるイベントが来ないんじゃあ」的に余分に金を請求してたのはどうだったのか?)

 この年、あの10.19、一部では「パ・リーグの一番長い日」を迎えます。
 この日は、まず阪急ブレーブスが、オリエントリース(現オリックス)に身売りするというニュースが出て、大騒ぎに。
 夏ぐらいから南海ホークスのダイエーへの身売り話が紙面を賑わせたりしていたのですが、あまりにも唐突だったので、ただただビックリするしかなかったのが正直なところ。
 つうか、そもそもオリエントリースって何ぞや?って状態でした(まあ、リースっつうくらいだから金なり何なりを貸す会社なのは想像できましたが)。
 そして、その騒ぎが一息ついたころ、多くの人が思い出すのです。

 「あ、そういや、今日、川崎でダブルヘッダーやってて、近鉄が2つとも勝つと逆転優勝するんだよね」

 果たして、第1試合近鉄勝利で、第2試合に突入していたのでした。
 確か、このとき、たまたまABCが放映権を持っていて、それを知ったテレ朝のお偉いさんが何を思ったのか、通常の番組を無視して、半ば「報道特別番組」状態で、全国ネットで生中継を始めてしまうんですね(※1)。
 で、結果、関西地区では瞬間最高視聴率40%超えた(関東でも30%)という「事件」にまで発展しました。
 パ・リーグの、それも近鉄で、相手がロッテで、この数字を叩きだしたのは、当時としてはテレビ業界に衝撃を与えたようでした。

 翌年の10.12とか、その後の舌禍事件(?)やら、翌々年の西武つおい!な話は割愛して、話は89年のドラフト会議に飛びます。

 そう、後にパ・リーグ、そして日本プロ野球界を揺るがしたあの男と、パ・リーグの救世主となったあの男の登場です。

 (まだまだ続きます)

(※1)2016.07.09追記。この辺りの裏事情的なものは、「熱闘!プロ野球三十番勝負」(文春文庫ビジュアル版)を参照にしていただければ、分かると思われます。