「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(5)

2016-07-09 12:53:00 | NPB
 ◎このシリーズは、あくまでも管理者の主観で書かれています。
 ◎あと、基本、敬称略です。
 ◎記憶違いなどあるかも知れませんが、その辺は優しく見守ってください(おい)。
 ◎完全にリーグの歴史振り返りコーナー化としとるな……。

 1989年11月26日のドラフト会議。
 この年は、まあ、凄いメンバーが指名されました。
 主だったところ見ただけでも――
 
 ロ 1位小宮山悟、4位南淵時高、5位林博康
 鯨 1位佐々木主浩、2位東瀬耕太郎、3位梅さん平塚克洋、4位今久留主成幸、5位川端一彰
 公 1位酒井光次郎、2位まいど!岩本勉、6位有倉雅史
 虎 1位葛西稔、3位麦倉洋一、4位古里泰隆、5位SHINJO、6位吉田洋
 鷹 3位橋本武広、4位西俊児、5位馬場敏史
 燕 1位西村龍次、2位古田敦也、6位松元繁
 西 1位潮崎哲也、2位鈴木哲、3位大塚孝二、4位宮地克彦
 竜 1位与田剛、2位井上一樹、3位松永幸男、4位キク山田、5位ガニ股の人種田仁
 檻 1位下痢するまで飲みたいパンチ佐藤、3位高橋功一、4位藤本俊彦、5位松山秀彦、6位佐々木明義
 鯉 1位佐々岡真司、2位仁平馨、4位前田智徳、6位浅井樹
 牛 1位NOMO、3位石井浩郎 4位藤立次郎、6位鉄パイプ入来智
 虚 1位大森剛、2位川邉忠義、3位吉岡雄二

 ――とまあ、史上最高の時(1968年)に比べれば多少落ちるのかお知れませんが、まあ、凄いわ、この年は。
 何といっても1位の11人(あれ、1人足りない?!)が、程度の差こそあれ、1軍で活躍実績を作れたあたりが、今以て印象深いですね。むしろ実働期間、成績面においてはパンチさん悪目立ちし過ぎですな(苦笑)。
 とにかく、最大のトピックスは、ドラフト史上最多(当時)の8球団の1位指名の末、近鉄が野茂英雄を引き当てたことですか。
 都合、9回、パンチョ伊東氏は「野茂英雄、19歳、投手、新日鐵堺」と読み上げました。
 もっと余計なことを書くと、この年を限りに「ドラフト外」の入団が無くなるのですが、このオフに鷹は田之上慶三郎、ハムは内山正博、燕は野口寿浩、河野亮、虚塵は柏田貴史と契約に成功しております。
 突っ込みどころとしては、「(転向で)つぶしが利くから」との理由で投手を指名しまくったハム、捕手を3人も入団させた燕、そして指名した選手全員が後年、ハムか近鉄に移籍することになる虚塵(1年ブランクをあるとはいえ、虚塵でほぼ現役生活を全うしたのが柏田だけというのが皮肉)。麦倉、古里、松元あたりは、実働期間が短いので活躍したかどうかは微妙なところ。
 檻4位の藤本の場合、1軍で4試合出場のみだったものの、引退後にバレーボールの人気選手と結婚して名を残した感じ。
 後の名球会員4人が出ただけではなく、野茂、佐々木、小宮山、SHINJO、そして柏田とMLBに入る選手が5人もプロ入りしたのは特筆すべき事項でしょう。
 そして、この頃から、にパ・リーグは、イチかバチか枠というか何というか、現在にも続いているであろう主に下位でネタっぽい指名をする傾向を徐々に見せるようになります。

 翌年には、日本ハムは2位で「正体不明の高校生」を指名して、中継していたテレ朝をはじめマスコミ関係者をパニックに陥れたのをはじめ、翌々年には西武が6位でやり投げの選手を指名。それだけで驚いてはいけない。ダイエーの10位は大工で、ロッテに至っては7位が元お相撲さんで8位が東大生でしたからね。もし、今、ネットがあったらちょっとした祭りになっていた可能性大ですね。

 そして、1990年は、パ・リーグにトルネードが吹き荒れることになります。
 契約金1億2000万、年俸1200万(どっちも推定)の評価にたがわぬ、いや、それ以上の実力を野茂は発揮します。
 終わってみれば、最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振にベストナイン、新人王、さらには沢村賞まで獲得、1年にしてパ・リーグの顔となります。
 
 このころは、ほんの僅かながら、世間の目がパ・リーグに向くようになり、地上波、BSでもちょいちょい試合中継が流れるようになっていきました。
 そして、これを待っていたかのように、ロッテの若手で地味にそこそこの活躍をしていた伊良部秀輝がその剛球投手としてのポテンシャルを徐々に見せつけることになります。
 
 それでも、野球の神様は、よほどパ・リーグを憐れんでいたのか、まだ足りないとばかりに、愛知からちょっと風変わりな高校生を呼び寄せるのです。

 (まだまだしつこく続く)