お天気に誘われて散歩していると、山の中腹にお堂らしきものが見えるので行って
見た。
するとそこには小さなお堂があり、由来を読むと、
「天正5年(1577年)の頃、この山の麓に“堀之城”があり、城主土肥伊賀守が
武運の守護と領土鎮護の為に、この一宇を建て観音尊像をお祭りした」
「幾ばくもなくして戦に敗れた伊賀守は(現在の)岡山県高屋に逃れたが、
天正5年8月にその地で亡くなった」
「その後も、天空に聳える地に御座するがゆえに“空観音”と唱えられ信仰が続い
たが、時は流れ廃れたお堂を見るに見かねて明和3年(1766年)阿部伊勢守の
家臣宮野仲右衛門と百谷村の山手清助が協力して再興した」
「爾来脈々として信仰が続いたが、やがて堂宇はおろか観音尊像まで修復不可能
となり、の者が中心となって昭和24年に、堂宇と観音像を再興した」
と書かれていた。
お堂には、現代的なアルミの建具も入っていて、観音像も嘗ての「笠置菅野の観音
と共に一木三体にして名匠の作」と伝わっているものではなく、張りぼて(→写真)
らしい。
地元の人に聞いてみるとその昔、山麓に小さな丘があり“丸山”と呼ばれ、そこに
お城があったと言われているそうだ。
その“丸山”は、その後県道を造る際の埋め立て用にスッカリ取り除かれてしまい、
その跡地には今、上段の画像のような豪勢な邸宅が建てられている。
それにつけても嘗ての伊賀守、武運の守護と領土鎮護の為に観音堂を建てた筈な
のに、その年のうちに戦いに敗れ亡くなったという。 「盛者必衰」の見本だ!
そんな跡地にこんな大邸宅を建てて大丈夫か? と思うのは、貧乏人のやっかみ
だろうか?
見た。
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するとそこには小さなお堂があり、由来を読むと、
「天正5年(1577年)の頃、この山の麓に“堀之城”があり、城主土肥伊賀守が
武運の守護と領土鎮護の為に、この一宇を建て観音尊像をお祭りした」
「幾ばくもなくして戦に敗れた伊賀守は(現在の)岡山県高屋に逃れたが、
天正5年8月にその地で亡くなった」
「その後も、天空に聳える地に御座するがゆえに“空観音”と唱えられ信仰が続い
たが、時は流れ廃れたお堂を見るに見かねて明和3年(1766年)阿部伊勢守の
家臣宮野仲右衛門と百谷村の山手清助が協力して再興した」
「爾来脈々として信仰が続いたが、やがて堂宇はおろか観音尊像まで修復不可能
となり、の者が中心となって昭和24年に、堂宇と観音像を再興した」
と書かれていた。
お堂には、現代的なアルミの建具も入っていて、観音像も嘗ての「笠置菅野の観音
と共に一木三体にして名匠の作」と伝わっているものではなく、張りぼて(→写真)
らしい。
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地元の人に聞いてみるとその昔、山麓に小さな丘があり“丸山”と呼ばれ、そこに
お城があったと言われているそうだ。
その“丸山”は、その後県道を造る際の埋め立て用にスッカリ取り除かれてしまい、
その跡地には今、上段の画像のような豪勢な邸宅が建てられている。
それにつけても嘗ての伊賀守、武運の守護と領土鎮護の為に観音堂を建てた筈な
のに、その年のうちに戦いに敗れ亡くなったという。 「盛者必衰」の見本だ!
そんな跡地にこんな大邸宅を建てて大丈夫か? と思うのは、貧乏人のやっかみ
だろうか?
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