先月の“里山講座”は東広島市河内町の篁山(たかむらやま、標高:535m)だっ
たのだが、都合が悪くて参加出来なかった。
しかし、この山の山頂にある竹林寺には、小野篁という人にまつわる次のような
面白い話が伝わっているといい、又、篁は三蹟の一人小野道風や絶世の美女として
有名な小野小町の祖父とも言い伝えられていて、たいそう面白そうなので見に行っ
て来た。
小野篁の物語
篁山の山麓に、竹野辺秀識という人に仕える八千代という女性が住んでいた。
子供の無い八千代は、花王寺(後の竹林寺)の「千手観音」に千日の願をかけ参拝
を続けたところ、満願の日にお堂の中から童子が現れ五色の玉を授けた。
やがて802年の春に八千代は男子を出産したが、その子自ら「我こそは篁なり」と
名乗ったといい、不思議に思いながらも喜んで育てた。
篁は幼時より聡明で竹野辺氏にいつくしまれ、長じて12歳の時都に出て勉学に励
み学芸・詩歌に優れた有名な人となり、18歳の頃に関白小野大臣良相の娘と結婚
し小野篁と名乗った。
篁は時の嵯峨天皇(在位:809~823年)に仕え参議に登用され文学博士に任じられ
たが、昼は人々の為に働き、夜は冥途に至って冥官の宗帝王(文殊菩薩の化身)と
して閻魔王庁で罪を裁いた。
時がたって義父の良相が死に、冥府で危うく地獄へ落とされそうになったところを
生き返らせ、「私は、人々を救う為に人間になった。この事は決して他言するな」
と話した。
良相は娘に「篁は冥官。 決しておろそかにしてはいけない」と告げたが、
娘が夫に「本当ですか?」と尋ねたところ、
「人々を救う為にこの世に生まれて来たのに、人の世の小国で臣下と呼ばれるのは
悔しい」と、関白の家を立ち去り、京都愛宕寺前で地底へと姿を消した。
時は852年、51歳だった。
それから100年後、生まれ変わった篁は僧となって花王寺を訪れ、冥途の十王尊像
の内9体を刻み、残りの1体は自ら生身の仏になられた。
爾来、花王寺は“篁山竹林寺”と号する事となった。
場所は、JR山陽本線・入野駅の直ぐ東側だ。
登山道の手前には個人所有のツツジ園があり、その中を通らせて貰う。
入り口には、その人が建てられた八千代像が立っている。
この伝説の主人公を生んだ人で、生まれた子は「我こそは篁なり」と名乗ったそう
だが、“篁”というのは辞書で引くと“竹やぶ”の事だそうだ。
「我こそは“竹やぶ”なり」と名乗ったのだろうか? 興味津々だ!
(つつじ園の入り口→八千代像)
やがて仁王門に到着。
少し東側へ行くと“小野篁生誕の地”の石碑が立っていて、件の物語が
「関白の家に婿養子に入り、昼は嵯峨天皇に仕え、夜は冥途で宗帝王として閻魔王
庁で罪を裁いてところ、やがて死んだ義父が自分の前に引き出される…。」
と、書かれていた。
冥途で裁くとは随分おぞましい話だが、実の所は現世の生々しい話で、
「悪事を働いた舅を裁判官である篁が無罪にしてやったのに、感謝もせずに横柄な
態度をとるので、愛想をつかして離婚し、実家近くのお寺で僧になった」
と、いったところであろうか? 宋帝王というのは生前の邪淫の罪を裁くという。
恐らく舅が性犯罪でも犯したのだろう!
(仁王門→石碑)
仁王門まで戻り正面の八千代橋を渡ると正面に本堂があった。
子を授かる為に八千代が千日も本尊の「千手観音」に参拝 したそうで、今でも千
の手を持つ仏で何にでもご利益があるとして参拝者が多いらしい。
(上段:八千代橋の正面→側面、下段:本堂)
本堂の右側には十王堂があった。
生まれ変わった篁が僧となって訪れ、冥途の十王尊像の内9体を刻み、残りの1体
は自ら生身の仏になったと伝えられているそうだが、そのミイラを拝む事は出来な
かった。 残念!
たのだが、都合が悪くて参加出来なかった。
しかし、この山の山頂にある竹林寺には、小野篁という人にまつわる次のような
面白い話が伝わっているといい、又、篁は三蹟の一人小野道風や絶世の美女として
有名な小野小町の祖父とも言い伝えられていて、たいそう面白そうなので見に行っ
て来た。
小野篁の物語
篁山の山麓に、竹野辺秀識という人に仕える八千代という女性が住んでいた。
子供の無い八千代は、花王寺(後の竹林寺)の「千手観音」に千日の願をかけ参拝
を続けたところ、満願の日にお堂の中から童子が現れ五色の玉を授けた。
やがて802年の春に八千代は男子を出産したが、その子自ら「我こそは篁なり」と
名乗ったといい、不思議に思いながらも喜んで育てた。
篁は幼時より聡明で竹野辺氏にいつくしまれ、長じて12歳の時都に出て勉学に励
み学芸・詩歌に優れた有名な人となり、18歳の頃に関白小野大臣良相の娘と結婚
し小野篁と名乗った。
篁は時の嵯峨天皇(在位:809~823年)に仕え参議に登用され文学博士に任じられ
たが、昼は人々の為に働き、夜は冥途に至って冥官の宗帝王(文殊菩薩の化身)と
して閻魔王庁で罪を裁いた。
時がたって義父の良相が死に、冥府で危うく地獄へ落とされそうになったところを
生き返らせ、「私は、人々を救う為に人間になった。この事は決して他言するな」
と話した。
良相は娘に「篁は冥官。 決しておろそかにしてはいけない」と告げたが、
娘が夫に「本当ですか?」と尋ねたところ、
「人々を救う為にこの世に生まれて来たのに、人の世の小国で臣下と呼ばれるのは
悔しい」と、関白の家を立ち去り、京都愛宕寺前で地底へと姿を消した。
時は852年、51歳だった。
それから100年後、生まれ変わった篁は僧となって花王寺を訪れ、冥途の十王尊像
の内9体を刻み、残りの1体は自ら生身の仏になられた。
爾来、花王寺は“篁山竹林寺”と号する事となった。
場所は、JR山陽本線・入野駅の直ぐ東側だ。
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登山道の手前には個人所有のツツジ園があり、その中を通らせて貰う。
入り口には、その人が建てられた八千代像が立っている。
この伝説の主人公を生んだ人で、生まれた子は「我こそは篁なり」と名乗ったそう
だが、“篁”というのは辞書で引くと“竹やぶ”の事だそうだ。
「我こそは“竹やぶ”なり」と名乗ったのだろうか? 興味津々だ!
(つつじ園の入り口→八千代像)
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やがて仁王門に到着。
少し東側へ行くと“小野篁生誕の地”の石碑が立っていて、件の物語が
「関白の家に婿養子に入り、昼は嵯峨天皇に仕え、夜は冥途で宗帝王として閻魔王
庁で罪を裁いてところ、やがて死んだ義父が自分の前に引き出される…。」
と、書かれていた。
冥途で裁くとは随分おぞましい話だが、実の所は現世の生々しい話で、
「悪事を働いた舅を裁判官である篁が無罪にしてやったのに、感謝もせずに横柄な
態度をとるので、愛想をつかして離婚し、実家近くのお寺で僧になった」
と、いったところであろうか? 宋帝王というのは生前の邪淫の罪を裁くという。
恐らく舅が性犯罪でも犯したのだろう!
(仁王門→石碑)
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仁王門まで戻り正面の八千代橋を渡ると正面に本堂があった。
子を授かる為に八千代が千日も本尊の「千手観音」に参拝 したそうで、今でも千
の手を持つ仏で何にでもご利益があるとして参拝者が多いらしい。
(上段:八千代橋の正面→側面、下段:本堂)
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本堂の右側には十王堂があった。
生まれ変わった篁が僧となって訪れ、冥途の十王尊像の内9体を刻み、残りの1体
は自ら生身の仏になったと伝えられているそうだが、そのミイラを拝む事は出来な
かった。 残念!
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