朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
おり、12月12日には“福符義倉”が紹介されていた。
“義倉”や“社倉”というのは、天明大飢饉の悲惨な体験から全国各地に設けられた、災害
や飢饉に備えて米や穀物を備蓄する倉庫の事で、今も日本で2箇所だけ残っていて、その
一つが福山城の直ぐ東側に財団法人義倉として残っているというので訪ねてみた。
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玄関の右手には、中心になって義倉を設立した千田村庄屋の河相周兵衛の像があった。
周兵衛は、8年もの年月をかけて目論見書作成し、文化元年(1804年)に帰藩された
藩主阿部正精公から義倉設立の認可を受けたそうで、“福府義倉”の名は藩主の命で
菅茶山がと名づけたという。
その目論見書の骨子は、
『深津村庄屋石井武右衛門から託された遺金の銀60貫と、同志の庄屋や豪商から募っ
た240貫の銀のあわせて300貫を拠出して、当時財政難に喘ぐ福山藩が恥も外聞もな
く石州銀山から借りていた借財銀300貫を肩代わりし、その見返りとして利息相当分の
銀45貫を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済
する』 というものだったそうだ。
周兵衛達が拠出した銀300貫は、
・現在の銀価格で言えば、300貫×3.75kg×@81,900円≒9,214万円に相当するが、
・幕府の通貨の交換レート(金1両=銀60匁=銭4貫文)で、1両が現在の価値で5万円
と想定すると、5万円×(300×1000)匁÷60匁≒2億5000万円もの巨額となるらしい。
お金持ち達は一揆が起きると打ち壊しに遭う事が多く、同志の一人で銀30貫を拠出した
戸手村の庄屋・信岡平六の屋敷には、天明の一揆の際に品治郡や芦田郡の一揆勢が
屋敷になだれ込んだという。
いずれにしても農民や町人の窮乏を見かねて拠出したのであろうが、打算にしろ、義憤にしろ、その巨額さには驚いてしまう!
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玄関の左手には、義倉田の石碑があった。
義倉が設立されて11年後の文化11年(1814年)、蓄積された基金で中津原村に初めて
1反3畝21歩の畑地を購入してこの石柱を建立したのを手始めに、天保9年(1838年)
には領内に53町歩の土地を所有し、昭和21年の“農地改革”でその全てを没収される迄
の140年余で実に120町歩余を蓄えていたという。
ただ単に食べ物を配ったり備蓄するだけではなく、“義倉田”を徐々に増やして基金が目
減りするのを防ぎ長期に亘って救済事業を継続しようと考えた、周兵衛達の先見性は現
代を凌ぐもので感心させられる!
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天明の大飢饉で死んだ人の数は、正確な統計数字は無いものの、天明6年(1786年)
当時の人口2,509万人(※Wikipedia から引用)の約4%(100万人)に相当する犠牲者
が生まれたとも言われている。
こうした悲惨な体験から、設けられた各地の“義倉”や“社倉”も明治新政府の方針で多く
は消えてしまったが、その中で“福府義倉”は戦時中の空襲で諸施設を消失したり、或い
は戦後の農地改革で田んぼの全てを没収される憂き目にあったが、今は僅かに残った
土地を原資に、設立の精神に立ち返って「福祉・教育・殖産等の公益事業の補助」を行
っているそうだ。
欧米には、ビルゲイツのように自分の残りの半生を慈善事業に捧げた人も居ると聞く。
日本にも、明治時代には日露戦争で増えた孤児を救う為に、経営する会社の利益の大半
(現在の金額で数百億円)を投入した大原孫三郎さんのような人も居たが、昨今大金持ち
が多いというのに、周兵衛達のように私財を投げ打って世の中に奉仕する人の話は聞い
た事が無い。
周兵衛達の遺志を引き継ぎ今もって活動を続けている財団法人“義倉”は貴重な存在で、
その200年余に及ぶ活動に敬服した!
以下、義倉資料館から引用
〔文化元年(1804年)設立当時の出資者〕
〔文政元年(1818年)追加出資者〕…大阪五軒屋出資分返済に充当
〔福府義倉が、江戸時代の凶作に際し救済に充てた米の量〕
おり、12月12日には“福符義倉”が紹介されていた。
“義倉”や“社倉”というのは、天明大飢饉の悲惨な体験から全国各地に設けられた、災害
や飢饉に備えて米や穀物を備蓄する倉庫の事で、今も日本で2箇所だけ残っていて、その
一つが福山城の直ぐ東側に財団法人義倉として残っているというので訪ねてみた。
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玄関の右手には、中心になって義倉を設立した千田村庄屋の河相周兵衛の像があった。
周兵衛は、8年もの年月をかけて目論見書作成し、文化元年(1804年)に帰藩された
藩主阿部正精公から義倉設立の認可を受けたそうで、“福府義倉”の名は藩主の命で
菅茶山がと名づけたという。
その目論見書の骨子は、
『深津村庄屋石井武右衛門から託された遺金の銀60貫と、同志の庄屋や豪商から募っ
た240貫の銀のあわせて300貫を拠出して、当時財政難に喘ぐ福山藩が恥も外聞もな
く石州銀山から借りていた借財銀300貫を肩代わりし、その見返りとして利息相当分の
銀45貫を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済
する』 というものだったそうだ。
周兵衛達が拠出した銀300貫は、
・現在の銀価格で言えば、300貫×3.75kg×@81,900円≒9,214万円に相当するが、
・幕府の通貨の交換レート(金1両=銀60匁=銭4貫文)で、1両が現在の価値で5万円
と想定すると、5万円×(300×1000)匁÷60匁≒2億5000万円もの巨額となるらしい。
お金持ち達は一揆が起きると打ち壊しに遭う事が多く、同志の一人で銀30貫を拠出した
戸手村の庄屋・信岡平六の屋敷には、天明の一揆の際に品治郡や芦田郡の一揆勢が
屋敷になだれ込んだという。
いずれにしても農民や町人の窮乏を見かねて拠出したのであろうが、打算にしろ、義憤にしろ、その巨額さには驚いてしまう!
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玄関の左手には、義倉田の石碑があった。
義倉が設立されて11年後の文化11年(1814年)、蓄積された基金で中津原村に初めて
1反3畝21歩の畑地を購入してこの石柱を建立したのを手始めに、天保9年(1838年)
には領内に53町歩の土地を所有し、昭和21年の“農地改革”でその全てを没収される迄
の140年余で実に120町歩余を蓄えていたという。
ただ単に食べ物を配ったり備蓄するだけではなく、“義倉田”を徐々に増やして基金が目
減りするのを防ぎ長期に亘って救済事業を継続しようと考えた、周兵衛達の先見性は現
代を凌ぐもので感心させられる!
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天明の大飢饉で死んだ人の数は、正確な統計数字は無いものの、天明6年(1786年)
当時の人口2,509万人(※Wikipedia から引用)の約4%(100万人)に相当する犠牲者
が生まれたとも言われている。
こうした悲惨な体験から、設けられた各地の“義倉”や“社倉”も明治新政府の方針で多く
は消えてしまったが、その中で“福府義倉”は戦時中の空襲で諸施設を消失したり、或い
は戦後の農地改革で田んぼの全てを没収される憂き目にあったが、今は僅かに残った
土地を原資に、設立の精神に立ち返って「福祉・教育・殖産等の公益事業の補助」を行
っているそうだ。
欧米には、ビルゲイツのように自分の残りの半生を慈善事業に捧げた人も居ると聞く。
日本にも、明治時代には日露戦争で増えた孤児を救う為に、経営する会社の利益の大半
(現在の金額で数百億円)を投入した大原孫三郎さんのような人も居たが、昨今大金持ち
が多いというのに、周兵衛達のように私財を投げ打って世の中に奉仕する人の話は聞い
た事が無い。
周兵衛達の遺志を引き継ぎ今もって活動を続けている財団法人“義倉”は貴重な存在で、
その200年余に及ぶ活動に敬服した!
以下、義倉資料館から引用
〔文化元年(1804年)設立当時の出資者〕
石井 武右衛門 | 深津村庄屋 | 銀 60貫 |
河相 周兵衛 | 千田村庄屋 | 銀 15貫 |
信岡 平 六 | 戸手村庄屋 | 銀 30貫 |
神野 利右衛門 | 城下の豪商 | 銀 30貫 |
大阪 五軒屋 | 城下御札座 | 銀150貫 |
福井 常右衛門 | 城下の豪商 | 銀 10貫 |
大戸 久三郎 | 府中の豪商 | 銀 5貫 |
〔文政元年(1818年)追加出資者〕…大阪五軒屋出資分返済に充当
石井 武右衛門 | 深津村庄屋 | 銀 20貫 |
信岡 平 六 | 戸手村庄屋 | 銀 20貫 |
神野 利右衛門 | 城下の豪商 | 銀 20貫 |
河相 清兵衛 | 周兵衛の分家 | 銀 20貫 |
河相 料兵衛 | 周兵衛の分家 | 銀 20貫 |
〔福府義倉が、江戸時代の凶作に際し救済に充てた米の量〕
文政6年(1823年) | 3,120俵 |
天保7年(1836年) | 1,000俵 |
嘉永2年(1849年) | 1,000俵 |
嘉永3年(1850年) | 500俵 |
嘉永6年(1853年) | 2,120俵 |
文久元年(1861年) | 1,320俵 |