老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

戦争中のこと

2010-08-17 06:31:09 | 戦争・平和
私は昭和19年4月に津田塾専門学校の外国語科に入りました。元々は津田英学塾といったのですが、何しろ(敵性語を勉強するのですから)それでは存続がむずかしくなったため、19年度から理科を新設し、専門学校とあらため、英文科も外国語科と変えられたのです。この時には、すでに文部省の通達で外国人(敵国人)教師は辞めさせられていました。 

〔当時の文部省通達〕
昭和18年6月25日  学徒戦時動員態勢確立要綱決定 本土防衛のため学生の軍事教練と勤労動員が法制化される。
昭和19年1月28日  緊急学徒勤労動員方策要綱発表
   同年3月 7日  学徒勤労動員通年実施決定 勤労動員強化のため
     3月29日  中学生(旧制--小学校[当時国民学校]卒業後入学・修業年限5年)の勤労動員大綱決定
     5月16日  学校工場化要綱通達  

つまり、学生は勉強せずに軍需工場などで働けということでした。

入学してからは一日のうち確か半日、日立航空機立川発動機製作所の電纜(エンジンの部品)作りをしていました。3年生は9月に短縮卒業。12月になってからは体育館を本格的な工場にして大型の機械を運び入れ、寮生は一日3交替で飛行機のエンジンのピストンというのを作っていました。不良品はなぜかオシャカといっていました。理科生は電波に関する数値計算、分析などの作業で、工場作業はしませんでした。
 
二つある寮の一つには軍隊が入っていたので、(校舎も半分以上だったと思います。何しろ授業がないので、校舎に入ることもほとんどありませんでした) それまでの一人部屋に2人、二人部屋に4人が割り当てられ、ベッドだけでいっぱいでした。深夜作業を終えて帰ってくると、仲間を起こさないようにそっとベッドにもぐりこんだものです。
 
食事もお粗末なもので、カレー味の雑炊(お丼の中に黄色い汁が入っていて、大根や人参とご飯が浮かんでいる)とか、茹でたジャガイモ二つなどでいつもおなかをすかしていました。
 
夜中に空襲があると作業を中断して手製の防空壕にかけこみました。防空壕は、自分たちで掘って、木の枝を並べ、その上に土を盛ったもので、直撃はもちろん、近くに爆弾が落ちたらひとたまりもありません。それでも、いったん空襲警報が鳴ると、一刻も早く飛び出してその防空壕に走らなければなりません。着替えする暇などありませんから服をきたまま寝ていました。  

実際、林を挟んだ東側にある東京商大(現一橋大)予科の寄宿舎に焼夷弾が命中して炎上しましたし、校地の端にある津田梅子の墓にも焼夷弾が落とされましたが、幸い、私たちが作業していた体育館や校舎、寮は無事でした。

こういった状況で、地方出身の学生は親が心配して休学又は退学してゆき、私の学年は入学時の半分に減っていました。私も8月になって体調を崩し、肺門リンパ腺と診断されて、藤沢の家に帰りました。実は、借家だった実家は、軍需工場に往復するトラックが通れるように道幅を広げるために建物疎開にあって壊されていて、父の友人の家の2間を借りて、家具の間に寝ていました。
 
女学生だった17歳と15歳の妹たちは、東京螺子と横河電機に動員されていて、ターレット旋盤やハンダ付けをさせられていました。汽車が不通になるとみなでレールの上を一駅歩いて通っていました。体の弱かった下の妹は途中で病気になり、結局同級生と一緒に卒業できませんでした。
 
こうして終戦の詔勅を聞いたのです。

「護憲+BBS」「戦争中のこと」より
松林
コメント (1)
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