1960年代、吉本隆明の【擬制の終焉】と言う言葉が流行った。彼は前衛と呼ばれた共産党はじめ進歩的知識人たちを厳しく批判、フルシチョフのスターリン批判以前に反スターリン主義を断固として打ち出した。現在のメデイアの評論家連中も同じだが、戦後の言論界にも、戦中には「戦争万歳」を叫び、世論誘導に一役買った右翼の全体主義者だった人間が、敗戦後は自らの戦争責任をほっ被りして、左翼的言辞を弄して、国民を見下して、高みからエラそうに物を言う状況があった。彼は「戦争責任論」を書き、それらの欺瞞的知識人や共産党の抵抗神話を徹底的に暴きだし厳しく批判した。
しかし、吉本が特異なのは、知識人が反スターリン主義的に新たな前衛党を創設し学生大衆や労働者を組織すればうまくいくという立場をも拒絶した点にある。吉本流にいうならば、【自立の思想】というわけだが、ここに彼の思想的独自性がある。この思想は、大学紛争が吹き荒れた時代、全共闘の一つの思想的基盤になった。
実は、吉本が【擬制】(フィクション)として指弾した様々な制度、思想などの問題が、現実のものとしてわれわれの眼前に明らかになりつつあるのが現代と言う時代なのである。
政治的支配だろうが経済的支配だろうが、支配を維持するためには、自らの「覇権」を正当化するためには、必ず擬制(フィクション)を必要とする。例えば、米国の正義がそうである。アメリカの正義は、世界の正義であり、人類の利益に資するものだという擬制(フィクション)が戦後世界を支配してきた。米国は、その擬制(フィクション)を維持するために様々な理念を提示してきた。いわく、「自由」であり、平等なるチャンスである。しかし、イラク戦争以降の米国社会で顕在化してきたことは、そもそも米国社会にはそのような理念が原理的に存在していないのではないかという疑念である。
ブッシュ大統領が至高の価値として唱えた「自由」とは、先住民を駆逐して自分たちの王国を建設した征服者を正当化する方便ではないかという根本的疑念がぬぐいきれない。イラク戦争の経緯はまさに米国建設を支えた思想の焼き直しであり、米国流正義思想の傲慢さと限界を露呈したものだった。
「チャンス」は社会の下層に充満する不満をなだめるための方便だった。リーマンショック以降の米国社会の現状を見れば、米国の信条とする「チャンスの国」とは、まさに決して実現しない「見果てぬ夢」に過ぎない事が了解できる。オバマ率いる米国の直面している「苦悩」とは、まさに米国を牽引してきた【擬制】が轟音を立てて崩壊している点に求められる。
翻って日本の現状を考えれば、米国の直面している苦悩と同質の苦悩を抱え込んでいる事が見えてくる。思想的に見れば、東西冷戦の終焉とは、西側先進国に「擬制の終焉」という同じ苦悩を与えたのである。
よく考えればすぐ理解できるが、社会を維持し秩序を構築するためには、この種の【擬制】(フィクション)はどうしても必要になる。その逆に、そのような【擬制】を徹底的に嫌悪する思想も生み出す。「強者」のみが生き残る【ジャングルの掟】を志向した「新自由主義」や「ネオコン」思想がその典型である。ところが、【擬制】を徹底的に嫌悪したはずの「新自由主義」も「ネオコン」派も自らの「覇権」を正当化する【擬制】を必要とする。この論理矛盾こそが、「新自由主義」や「ネオコン」派の思想的限界であり、彼らの凋落の大きな要因だった。
【人間は余計な事を考え出す存在である】と言う言葉は、人間存在の根本を言い当てている。また「人間は社会的存在である」(マルクス)というのも真実。この二つを合わせ考えると、結局「擬制」(フィクション)から人間はのがれる事ができないと言う事にきずく。
デモクラシーもひとつの擬制であり、自由主義もまたひとつの擬制。完全に民主的な国家も、真に自由を享受できる国家も現実には存在していない。
人間がつくる「共同体」を維持し続けるためには、どこかに共同の理念(※これは宗教的シンボルかもしれないし、政治的理念かもしれない)がどうしても必要になる。歴史や民俗学を見ると、人間が営々としてこの種の営みを続けてきたことが了解される。
実は、現在展開されている民主党代表選の狂騒曲の裏で静かに展開されているのは、「擬制」(フィクション)の終焉以降の新たな「擬制」(フィクション)の創造の争いだという点を忘れてはならない。
菅の叫ぶ「強い経済・強い財政・強い社会保障」という「擬制」を信じるか、小沢一郎の叫ぶ「政治は生活。国民生活が第一」という「擬制」を信じるかの争いなのである。
同時に忘れてならないのは、「ジャングルの掟」を信奉した新自由主義的理念(※みんなの党や自民党及び菅を支持している民主党の一部)により荒廃した日本社会の再構築の理念(擬制)が問われているという視点である。
この視点から見れば、「政治とカネ」とか「クリーンな政治」というのは、これを唱えている連中の顔ぶれ(仙石・枝野・玄葉・前原など)を見れば、新自由主義的擬制を補強するための方便に過ぎないと言う事が理解される。クリーンさが政治の進化を保障できるなどというのは、ほとんど「神話」に過ぎない。そんなにクリーンが好きなら、子供に政治をさせれば良い。「クリーン」さこそが政治の拠り所のような議論の馬鹿馬鹿しさにきずくはずである。
それに比べると、同じ方便だとしても、米国が自らの覇権を補強するために唱えた「自由」とか「チャンス」という思想的インパクト・深さに比べると「クリーン」などというものが、如何に浅薄なものか。このような浅薄なスローガンを叫ぶ連中の思想的劣化・愚かさの証明のようなものだろう。
わたしたちは、戦後社会システムを支えた擬制(理念)の終焉の後、如何にして新たな理念(擬制)を創出するかというきわめて重大な時代に生きている事を忘れてはならない。民主党代表選の狂騒曲は、この生みの苦しみを象徴するカオス(混乱)なのだと認識しなければならない。
「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
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