昨日のブログでちらっと触れたカラヤン嫌いの音楽評論家と氏名の4分の3が共通な官能作家の宇能鴻一郎は、私の心の師匠、とお呼びしたいのだが面識はない(昨年お亡くなりになったので、面識は永久にない)。面識のない宇野先生を心の師匠とお呼びすることは、ヴァーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でヴァルター・フォン・シュトルツィングが勝手にヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(吟遊詩人)を自分の師匠だと言い張ることと同様である。そのココロは、師匠の業績を書籍等で読み、それを手本にしたことをもって師匠とお呼びする、ということである。だから師匠はその弟子の存在をご存じない。これを「片面的師弟関係」という。こういう師弟関係が成り立つかどうかについては議論のあるところである。「マイスタージンガー」でこれを認めたのは「良い先生だ」と言ったハンス・ザックスだけ。ほかのマイスターたちは、「大昔に死んだ人など先生にはなり得ない」と言ってその師弟関係を否定した。因みに、刑法では「片面的共同正犯」は成立しないとされている。「片面的恋愛関係」はどうだろう?「恋愛感情」は一方的に持つことが可能でも、それは「片思い」であって、「恋愛関係」(両思い)ではないだろう。片思いなのに恋愛関係が成立してると妄想している輩ほど始末におけないものはない。
「心の師匠」とお呼びすることの是非はともかくとして、私が師を知ったのは、学生時代に父が毎晩買ってくる日刊ゲンダイに連載されていた官能小説によってである。惹きつけられたのはその文体。一人称の「あたし」が主語で、文中に散見される「あたし、○○なんです」が私にとって「定型句」となった。
だから、所属していたサークルのサークル日誌への投稿も「定型句」を真似て(というか、既に体の一部になっていたからごく自然に)書いたら概ね好評であったが、一人、純情で鳴らした某女史だけがそれを読んで真っ赤になったと言う。不思議だったのは、私はただ文体を定型句に従って書いただけで、内容は官能的なモノではない。なのに女史が真っ赤になったということは、純情で鳴らした女史も実は師の小説を読んでいたのではないか、と疑われるのである。半世紀経った今もこの疑惑は疑惑のままである。
宇能鴻一郎先生と面識はなかったが、一度だけボジョレー・ヌーヴォーの試飲会でお見かけしたことがある。名札で分かった。一本一本熱心にテイスティングをされていた。それから、その小説の中に巨大なスピーカーが登場したことがある。私はその一事とボジョレ・ヌーヴォーの試飲会でのご様子から、師はクラシック音楽のファンであらせられたと勝手に推測している。
宇能鴻一郎は、元々は純文学を書いていて、芥川賞を受賞している。なお、夏目漱石は芥川賞を受賞していない。当然である。芥川龍之介は夏目漱石の弟子である(芥川の作品中に「夏目先生」が登場する)。夏目漱石の時代に芥川賞がありようはずはない。仮にあったとしても、師匠が弟子の名を冠した文学賞を受賞するなんてことはないだろう。私は、宇能鴻一郎と同じくらい夏目漱石もよく読んだ。だから、宇能鴻一郎と並んで夏目漱石のことも師と呼びたいワタクシである(そういう論でいけば、ベートーヴェンも我が師である)。
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