黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

オー・ヘンリーとおそ松くん

2025-01-24 11:52:57 | 小説

やっぱり。オー・ヘンリーで意気投合したやに見えた弁護士の卵に対して、るいが放った「ありがとうございました」は単に仕事上のお礼ではなく、「一瞬、いい夢を見せてもらいました」を含意する訣別宣言と見た(朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の再放送)。「元宇宙人」のジョーがオー・ヘンリーを読むとは思えないから、るいは、オー・ヘンリーに関して弁護士の卵からジョーに乗り換えたのではなく、オー・ヘンリーからサッチモ=ルイ・アームストロングに乗り換えた、と言ってよいであろう。オー・ヘンリーの小説の粗筋を深津絵里が主人公に扮して説明するシーンがもう見れないとなると残念である。

「カムカム」にこれ以上オー・ヘンリーが出てこないとなると、私のオー・ヘンリー・ネタは「善女のパン」と「よみがえった改心」で打ち止めになりそうである。その「よみがえった改心」をちゃんと読んだのはつい最近だが、粗筋(足を洗った元金庫破りが、彼を付け狙う刑事の見ている前で、金庫を破って中に閉じ込められていた子供を救出したうえで刑事に自首するが、刑事はあんたなど知らないと言う)は半世紀前に知っていた。それはすなわちテレビで見たアニメの「おそ松くん」の番外編である。チビ太が元金庫破りで、刑事がイヤミだ。子供を救出した後、手錠をかけてくれと手を差し出すチビ太に対してイヤミ刑事は「ミーはあんたのことなど知らないざんす」と言って去るのである。

感動的な話だが、疑問があった。子供を救出するために金庫を開けたところで何の罪にもならない。窃盗罪の可能性は皆無である。鍵を壊したのなら器物損壊罪の可能性があるが、それとて、子供を救出するためだから緊急避難に該当する。だから、イヤミ(刑事)としてもチビ太を逮捕する理由がないのである。そう考えると、別にイヤミが温情を示したわけでもないこととなり、感動する理由もなくなるのである。

だが、原作を読んで分かった。主人公は、出所してから数回金庫破りをしており、それが余罪となっていて、刑事はその件で主人公を追っていたのである。主人公は、子供を救出した後、その件で刑事に自首したのだから、刑事は十分主人公を捕まえる理由があったのだが、刑事は「あんたなんか知らない」と言ったわけだから、明らかに温情を示したのである。

厳しい刑事が温情を見せる点は、「レ・ミゼラブル」のジャヴェール刑事と共通である。ジャヴェール刑事とイヤミは「おフランス」つながりである(だが、イヤミはてかてかの日本人である。その髪型は、日本人指揮者によくある髪型である)。

それにしても、現朝ドラは、朝のBSでは往年の名朝ドラ「カーネーション」の直後に本放送で、昼の地上波ではこれまた往年の名朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の直後に再放送。なにやら「あてつけ」のようでもある。

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オー・ヘンリーの「善女のパン」のドイツ語訛り

2025-01-23 11:56:53 | 小説

再放送している「カムカムエヴリバディ」では深津絵里が演じるヒロイン(るい)と弁護士の卵がオー・ヘンリーで意気投合してデートに至ったが雲行きは芳しくないようだ。代わって浮上してきたのがオダギリジョー扮する「宇宙人」……とこれまでクレジットでも表記されていたが、昨日から晴れて「ジョー」という人間の名前になった。ジョーはトランペッターだから今後はジャズの話が多くなる?すると、オー・ヘンリーの出番はなくなりそうだ。記憶に新しいうちに少し読んでおこう。

ってわけで、るいも読んでいた「善女のパン」の日本語訳を読む。この短編は、一般には「魔女のパン」と訳されていて、そっちの方が原題(Witch's Loaves)に忠実なのだが、なぜ、「魔女」だったり「善女」だったりするのだろう。両者は真逆のようだが。思うに、パン屋のマーサが良かれと思ってしたことが結果的に客の仕事を台無しにしてしまったのだが、この場合、とんでもないことをしたことを前面に出せば魔女になるし、親切心でしたことを考えれば善女になる。作者のオー・ヘンリーは、客にマーサに対して思いっきりの暴言を言わせてるから前者であり、だからタイトルを「魔女」(witch)にしたが、この作品を「善女のパン」と訳した人は後者の考えだったのかもしれぬ。

因みに、読んだ日本語訳で客が最初に発した言葉が「古いパン二つ、おねがいじます」。「じます」は誤植?と思ったが、その後の客の言葉のサ行がすべて濁っている。ははーん。この客はドイツ語訛りの英語を話すという設定である。ドイツ語ではサ行が濁る(サシスセソがザジズゼゾになる)から、これでもってドイツ語訛りを表しているに違いない。だが、「おねがいします」は日本語であり、その日本語をドイツ訛りにしたものである。ってことは、オリジナルでは違う表現でドイツ語訛りを表しているのだろうか。原文を読んでみた。推測は当たっていた。例えば「You have」が「You haf」になっていた。ドイツ語では「v」は濁らず「f」の発音になる。てな具合である。ただ、解せなかったのは、「picture」が「bicture」になっていたこと。ドイツ語でも「p」は「p」と発音すると思うのだが。ドイツ系のアメリカ人はそのように発音するのだろうか?

そう言えば、映画「オッペンハイマー」を二度見たのだが、初回と二回目の間に「ユダヤ人の歴史」を読んでいたせいで、ユダヤ系アメリカ人の研究者が「イディッシュ」(ユダヤ人の話すドイツ語)を話題にしていることを二回目の視聴で気がついた。そのイディッシュで、もしかして……いやイディッシュでも「p」は「p」と発音するようである。ピーピー問題は現時点で未解明である。

「おねがいじます」が訳者の創作であるならば、他の訳者は他の方法でドイツ語訛りを表しているのかもしれない。他の訳本を仕入れて確かめてみようかしらん。

なお、「善女」又は「魔女」の名はマーサ(Martha)。これって、ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のヒロインの名前と同じである。映画のマーサはシェフ。シェフとパン屋は、犬と猫よりも近縁種である。はたして関係は?……ない、偶然の一致のようである。なお、この映画の原題は「Bella Martha」でドイツ語とイタリア語のチャンポン。むむっ、ドイツ語ってことは「Martha」は「マルタ」のはずである。「マーサ」じゃないじゃん。あと「Martha」はヘブライ語で「女主人」の意味らしい。おお!上記とつながった?いや、単に「ユダヤ人」と「ヘブライ語」ってことだけで、なんらつながりはない。なんだか、あっちこっちに風呂敷を広げたまま退散するようで恐縮である。

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モーツァルトのオペラとクラリネット

2025-01-22 18:16:43 | オペラ

モーツァルトとクラリネットと言えば、最晩年に書いたクラリネット五重奏曲とクラリネット協奏曲の二大名曲が頭に浮かぶ。アントン・シュタードラーというクラリネットの名人がいて、その音色に惚れ込んだモーツァルトが彼のために書いたという。それまで、モーツァルトとクラリネットは縁遠かったイメージ。例えば、あのジュピター交響曲にクラリネットのパートはない。クラリネットは新しい楽器で、この頃ようやく実用化されたものだからなぁ、と思っていた。

だが、少し、その登場時期を早める必要がありそうだ。というのも、例によってレーザーディスクのダビングをしていて、直近ではモーツァルトのダ・ポンテ三部作(「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」)を聴いたのだが、たしかに、「フィガロの結婚」のスコアにクラリネットのパートはあることはあるのだが、ほんのちょびっとであり(それでも、そのほんのちょびっとの中に、あの有名なケルビーノの「恋とはどんなものかしら」や伯爵夫人のアリアが入っているのだからモーツァルトの楽器を見る目をさすがである)、オーボエの活躍には遠く及ばない。例えば、第4幕のスザンナのアリアで歌に先立ってメロディーを奏でるのはオーボエである。

ところが、「ドン・ジョヴァンニ」と「コシ・ファン・トゥッテ」では一転クラリネットが大活躍である。多くのアリアで歌とからむのはクラリネットである。「フィガロ」と「ドン・ジョヴァンニ」の間に何かがあったのだろうか?そこで年代を調べてみた。するとこうである。

1779年 シュタードラーがウィーン宮廷楽団と契約。
 この間、モーツァルトとシュタードラーが仲良しになる。
1786年 モーツァルトの「フィガロの結婚」がウィーンで初演される。
1787年 シュタードラーがウィーン宮廷楽団に正式に入団する。
1787年 モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで初演される。
1788年 モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のウィーン初演が皇帝の要望にょり宮廷劇場で行われる。
1789年 モーツァルトがクラリネット五重奏曲を作曲。
1790年 モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」がウィーンで初演される。
1791年 モーツァルトがクラリネット協奏曲を作曲。

このように、モーツァルトがシュタードラーのクラリネットに触発されてクラリネット五重奏曲やクラリネット協奏曲を書いた時期と「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を書いた時期が相前後している。モーツァルトは以前からシュタードラーとは仲良しだったが、シュタードラーが宮廷劇場に正式に入団して一層その音を身近に聴くようになり、その音に感銘してクラリネットが主役の曲やオペラのクラリネット・パートを書いた、という仮説は悪くない筋書きだと思う。ただし、私は一瞬、シュタードラーの宮廷劇場正式入団の後に「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたから、シュタードラーに吹かせるために「ドン・ジョヴァンニ」のクラリネット・パートを書いたに違いないと色めきだったが、考えてみれば「ドン・ジョヴァンニ」の初演地はプラハであり、作曲の段階で皇帝がウィーンでもやれ!と言っていたかどうかは不明である。だから、「シュタードラーのために」書いたとは言わないでおこう。

私はふざけた話が好きだからダ・ポンテ三部作は大好物で数え切れないほど聴いてきたが、クラリネットがこんなに気になったのは今回が初めてである。別に、最近クラリネットをたくさん吹いてるわけではない(毎日吹いてるのはオーボエである)。かように、音楽は聴くたびに新たな発見があるものである。本を読むのも同じである。

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「コシ・ファン・トゥッテ」とジェンダー・フリー

2025-01-22 11:36:17 | オペラ

モーツァルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の私の一番好きな箇所も、前作の「ドン・ジョヴァンニ」の終曲と同様の快活な重唱。それは第1幕のエンディングで、こんな感じ。

フィオルディリージ(一番上のソプラノのパート)がラを伸ばしてるところに(青いライン)、負けるものかとドラベッラ(二段目)とデスピーナ(三段目)が長い音で入ってくるところなど(赤いライン)わくわくする。調も「ドン・ジョヴァンニ」の終曲と同じニ長調。

因みに、このオペラのタイトル「コシ・ファン・トゥッテ」(Cosi fan tutte)は、二作前の「フィガロの結婚」に「Cosi fan tutte」の歌詞がちらっと出てくるのだが(次の楽譜の赤いライン)、

皇帝がこれを聴いて面白がって、この歌詞を使ったオペラを書け、とモーツァルトに命じたのが出来たきっかけだと。

その意味は「女はみんなこうしたもの」。イタリア語のイの字も知らなかった頃の私は、「Cosi」は「こうした」で、「tutte」が「みんな」だから、「fan」が「女」だと思ったわけだが、大間違い(ブログのためならば自分の恥をさらすことを厭わないワタクシ)。「tutte」は「全て」の女性複数形でこれだけで「すべての女は」。「fan」は「fannno」の省略形で「する」「ふるまう」の意味。だから「Cosi fan tutte」は直訳すると「すべての女はこのようにふるまう」となり、これを意訳して「女はみんなこうしたもの」となるのである。

ところで、「女はこうしたもの」などというジェンダーによる決めつけは、ジェンダー・フリーのこのご時世においてはふてほど(不適切にもほどがある)。これを改める方法の一つは、一切、「女は……」という日本語訳を表に出さず、表記をイタリア語の「Cosi」のみにすること。どんなに破廉恥な歌詞でも外国語となるとありがたがってかしこまって聞く日本人のなんと多いことか。だからである。

だが、どこぞから日本語訳を聞きつけるかも知れぬ。その場合の対策は、その昔、クラシック好きの子供達のアイドルだった元NHKアナウンサーの後藤美代子さんが私の知る限り唯一放送でご自分の意見をおっしゃったと思われるあの名言、すなわち、「わたしは『男はみんなこうしたもの』と言いたい」を実行に移すことである。すると、タイトルは「Cosi fan tutti」となる。すると、逆差別だと言って怒る男が現れるかもしれない。その場合は、「tutti」は男性形複数だが、男女ひっくるめた全員のことも「tutti」と言うようだから(全合奏のとき楽団員に女性がいても指揮者は「Tutti!」と言う)、これは「人はみなこうしたもの」の意味なのだ、と言ってやればよい。事実、このオペラは、出てくる男どもも相当馬鹿である。

なお、某国の新しい大統領は、性は「male」と「female」しか認めないと言うような保守派であり、前大統領の施策を次々と反故にしているから、この方が「Cosi fan tutti」などと聞いたらたちどころに「Cosi fan tutte」に戻せとお命じになるだろうか。

因みに、「ふてほど」は「不適切にもほどがある」の四文字略語であるが、このドラマが言いたかったことは、「不適切にもほどがあると言うにもほどがある」だったと思う。

 

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コラールの成り立ちVol.10ヨハネ受難曲の第3曲と第17曲

2025-01-21 16:49:07 | 音楽

コラールの成り立ちシリーズに新たな題材が加わった。麹味噌合唱団(仮名)のヨハネ受難曲(バッハ)に参加することにしたので、ヨハネ受難曲のコラールについても成り立ちをお勉強しようと思い立ったのである。既に、第5曲(Vol.5)と、第11曲(Vol.3)と、終曲(Vol.1)については掲載済なので、それ以外の曲が対象である。

ヨハネ受難曲の最初のコラールは第3曲。

この第3曲と同じメロディーなのが第17曲(調は全音上がっている。2番省略)。

すなわち、これら二つのコラールの元曲の賛美歌は同一であり、それは、ヨハン・ヘールマン(注1)の「Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen」である(次の楽譜はヨハネ受難曲の第3曲(二つ前の楽譜)の音符に当該賛美歌の第1節の歌詞を当てたものである)。

誰々の賛美歌と言った場合、大抵「誰々」は詩人である通り、ヨハン・ヘールマンは作詞者であり、まず1630年にヘールマンの詩が公表され、その10年後にメロディーが付けられた。メロディーを付けたのは、ヨハン・クリューガー(注2)である。ヨハン・クリューガーは、本シリーズにもたびたび登場したこの時代の大立て者である。

この賛美歌は15の節から成り、ヨハネ受難曲の第3曲はその第7節であり、第17曲は第8節と第9節(二つ上の楽譜では省略)である。

この賛美歌はクリューガーのメロディーともどもなかなかの人気曲となり、バッハは、マタイ受難曲にもこの賛美歌を使用し、第3曲には第1節を、第46曲には第4節を当てている(だから、この賛美歌のタイトル(第1節の冒頭)である「Herzliebster Jesu」の歌詞はマタイ受難曲において聴くことができる)。また、そのメロディーを、オルガン用コラール(BWV1093)にも使用した。

バッハ以外の作曲家も、例えば、ブラームスやマックス・レーガー(注3)がそのメロディーをオルガン曲に利用している。また、クリスチャン・フュルヒテゴット・ゲレルト(注4)は同じメロディーを彼の受難詩「Herr, stärke mich, dein Leiden zu bedenken」に使っている。面白いところでは、現代作曲家のマウリシオ・カーゲル(注5)が、バッハの生誕300年を記念して作曲したオラトリオ「Sankt-Bach-Passion」の第19曲に、この賛美歌をもじったコラール「Herzliebster Johann」を置いている。

今回のまとめ図は次のとおりである。

これで、ヨハネ受難曲の二つのコラールの成り立ちを一度にやっつけた。なかなか、経済的である(もっとも、マタイ受難曲においては、「血潮したたる」だけで片付く曲は2曲どころの話ではない)。

出典:ウィキペディアのドイツ語版、英語版
注1:Johann Heermann(1585.10.11~1647.2.17)。BWV94の記事で当ブログに一度登場した。
注2:Johann Crüger(1598.4.9~1662.2.23)
注3:Max Reger(1873.3.19~1916.5.11)
注4:Christian Fürchtegott Gellert(1715.7.4~1769.12.13)
注5:Mauricio Kagel(1931.12.24~2008.9.18)

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