黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

テレビのやらせ

2025-01-28 16:54:22 | 生活

テレビが面白くなくなったのは歳のせいかと思ったら、若い世代はもっと見ないそうだ。

以前、某テレビ局のやらせが発覚したことがある。人間の胸のあたりに匂いのある食材を忍ばせて犬に反応させた、と聞いて、すぐあれだと分かった。偶然見てたヤツだ。飼い主が犬の散歩中に急に倒れたら犬はどういう反応を見せるかを検証する番組だった。何組かの実験の中で、倒れた飼い主を心配するように見えて、変に胸のあたりをくんくんする犬がいて変だな、と思ったヤツだ。逆に、倒れた飼い主を尻目に喜び勇んで駆け回る犬もいたが、あれはやらせではないだろう。犬の本心なのだろう。

私は、騙されやすい人間である。以前、別のテレビ局で、芸人がロバを連れて全国を縦断する番組があり、そのロバが南米から来たという触れ込みを私は真っ向から信じ、ロバのファンになって写真集まで買った(今も本棚に並んでいる)。だが、実際は道産子だった。嘘がばれたテレビ局はそのことを逆手にとって、実は木村某という名前であると発表した。お人好しの私も、事ここに至ってようやくテレビの世界は嘘だらけと認識するようになった。

テレビ局に言わせると、嘘に決まってるだろう、信じる方がバカだ、ということなのだろう。

例えば、かつての「笑っていいとも」のテレフォンショッキングは、番組開始当初は、日替わりゲストが友達にアポなしで電話をして「明日出てくれる?」と聞いてスケジュールが空いてたら「いいとも!」と言って翌日ゲストとして来るという「設定」だったが(友達の輪)、電話をかけられた「友達」が常にOKで芸能人がそんな暇なわけはないから電話の向こうで「明日?」とか言って考えるそぶりをするのを視聴者は芝居だと分かっていたが、それでも建前はあくまで「アポなし」だった。そんなある日、ゲストに来た某女優さんが、明らかに予め決まっていたことが分かることをぺろっと言ってしまった。さらに、あわてた女優さんが「ごめんなさい、あんなに言われてたのに」と言って墓穴を広げてしまった(この女優さんは、正直者の希少種である)。タモリさんは横で笑っていた。そんなこんながあって、そのうち「設定」はなくなり、電話の向こうの芸能人は変な芝居をせずに「いいとも!」と言えるようになった。

それでも、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」は、鶴瓶師匠自身がスタッフにしこんだか?と聞くほど奇跡的な出会いに溢れてはいるが、「しこみなし」であることを私は固く信じている。つうか、信じたい。私にとっては、正直者の最後の砦である。まあ、連れ合いに先立たれて「せいせいした」とのたまった未亡人殿は、あれは仕込みではなかったろう(そんな危ない台詞を言う人を仕込んだりはしないだろう)。

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リモコン収納箱

2025-01-27 10:04:49 | 生活

大相撲で逆転優勝を決めた豊昇龍は、かつての横綱朝青龍の甥っ子だそうだ。親子でなくてもここまで似るのだなー。土俵上の仕草は朝青龍を彷彿とさせるものだった。

さて。モノを落とすと重力を恨む。逆恨みであることは重々承知の助である。ニュートンのせいにしないだけましである(ニュートンがいてもいなくても重力は働く)。

家の中で所在不明になったリモコンを恨む。これも逆恨みである。リモコンを持ったまま次の用事にとりかかり、その先で考えなしに手にしていたリモコンをひょいと近場に置いてしまう私の責任だからである。そう言えば、ドイツ系アメリカ人と結婚した恩師の話では、恩師の連れ合いはモノの置き場所を厳格に定めていて、恩師が適当に置いたモノを必ず定めた場所に戻すそうだ。思うに、ドイツは北国だから、モノが常に決められた場所にないと雪に埋まって探せ出せなくなる。だから、そのような几帳面な人間が淘汰によって生き残ったのかもしれない。だが、恩師は、そういう堅苦しい生活はイヤだと文句を言っていた。

恩師はイヤでも、その連れ合い殿の生活習慣に倣えばリモコンが行方不明になることはないだろう。私には、堅苦しくてイヤだと文句を言う連れ合いはいない(堅苦しいのが好きな連れ合いもいない。要は、連れ合いがいない)。というワケで、百均でリモコン収納箱を買ってきた(「味ぽん」はアクセントである)。

うーむ。ここから出して、これまでなら傍らにぽい。だが、元に戻さなくてはならぬとなると一手間増える。恩師ではないが面倒臭い気もする。だが、リモコンがないないと言って探し回ることを考えれば元がとれると言うべきか。

布団にくるまりながらYoutubeを聴いていて、終わったとき手の届く範囲にリモコンが転がってないことも不便に感じられたが、だったらリモコン箱を枕元に置けば済むことであった。

そうだ!リモコン同様ないないと言って探すことの多いスマホもここに入れておこう!

これで、ドイツでも暮らせるというわけである(?)

因みに、Youtubeは視聴番組が終わって放っとくと勝手に次の番組が始まる。昨夜は、そんなこんなでバッハのモテットの2番のはしご視聴であった。何度も聴いた演奏でも、聴く度に注意が向かう先が異なる。昨夜は伴奏のオーボエにずっと耳が行っていた。

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「白蛇伝」から京劇の音楽が聞こえてきた件

2025-01-26 13:13:13 | 映画

今年は巳年であるが、巳は一般には嫌われ者である。これにはちゃんと遺伝子レベルの理由があり、巳を怖がらない人は巳に食われたり毒で殺られたりして淘汰された結果、巳を怖がる人が多く残ったのである。

巳は長い。因みに、ドイツ語で巳のことを「Schlange」という。「lang」は「長い」であるから、文字通り「長いヤツ」と言う意味である。

その長いヤツは、他の長いヤツのゴハンになることが多い。これは解剖学的に大いに理解できる。すなわち、長いヤツを消化するためには、自身も長い方が都合がいいわけである。

長いヤツは、蛙をゴハンにすることも多い。「長いヤツに睨まれた蛙」という言葉もある。だが、両者の関係は一方的な「捕食者」「被食者」の関係ではない。要は大きさの問題である。事実、大きな蛙は小さな長いヤツを喰らうのである。長い舌で一撃のもとで口の中に入れてしまう。もし、あなたがミクロの世界の住人になった際は、蛙にも十分に注意されたい。

「色の白いは七難隠す」という言葉には疑問を感じるワタクシだが、長いヤツについてはあてはまる気がする。「白蛇」はなかなか可愛い顔をしていると思うこともある。

「白蛇」と言えば、私の映画初体験は、小学校で観た「白蛇伝」。1年か2年のときだった。二つの教室の間をとっぱらって窓には黒幕を張り、黒板に白い布をかけてスクリーンにした会場で、生徒は床に体育座りをして観た。大層印象的だったからしっかり記憶に刻まれた。大人になって見返したときも、記憶と極端な相違はなかった(それに対し、小学校で二回目に観た映画については「わんぱく王子の大蛇退治」だったということにしているが、記憶では白馬に乗った王子と大蛇が洞窟の中でおっかけっこをしていたのに対し、近年入手したDVDでは空中戦になっていて大きく記憶と異なっている。一応、記憶違いということにしている)。

その「白蛇伝」の粗筋はこうである(ネタバレ)。白蛇の精が人間の女性の姿になって、昔自分を助けてくれた人間の男性と再会し恋に落ちる。だが、妖精を快く思わない坊主が恋路を妨害するが、人間になってまで若者と添い遂げようとする(元)白蛇の真心に折れて妨害を止める。皆に祝福された若い二人が船でいずこかに漕ぎ去っておしまい。

同じ物語でも、坊主の立場に立つとこのようになる。白蛇が人間の女性に化けて、人間の男性をたぶらかそうとする。男性を助けようと徳の高いお坊様が白蛇を打ち負かす。だが、白蛇が人間になり男性がたぶらかされる心配がなくなったので二人を認める。皆に祝福された若い二人が船でいずこかに漕ぎ去っておしまい。

この映画が日本で最初の長編カラーアニメ作品であるなんてことは、小学生で初見したときは知る由もなかったが、その後知った。その「白蛇伝」を久々に動画配信で観た。映画も音楽も、何回試聴してもその都度新発見があるものである。今回の新発見は中国色。パンダが上野にやってくる前にパンダが出てることは既に知っていたが、それ以外でも背景(自然、建物)が中国っぽいことに大いに注意が行った。さらに音楽。♪ミーレミソレミドーというメロディーが聞こえてきた。これは、京劇団の日本公演の中継を中学生のときテレビで観て唯一覚えたメロディーであり、私は、「京劇」と聴くと、この♪ミーレミソレミドーが頭に浮かぶのである。それが「白蛇伝」から聞こえてきてびっくりぽんだったわけである。

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「魔笛」にトロンボーンが登場する件

2025-01-25 13:15:06 | オペラ

レーザーディスクのダビングは粛々と進んでいて、モーツァルトもいよいよ「魔笛」である。告白すると、私は「魔笛」が少々苦手である。と言うのも、劇中至るところで「Tugend!」(徳)が叫ばれる。パパゲーノなどはしょっちゅう「Tugendがない」と言って怒られる。「Tugend」のなさでは、私はパパゲーノに引けを取らない。「徳」が不得意である(駄洒落(のつもり)である)。登場人物にも感情移入ができない。王子のタミーノは、冒頭、大蛇に追いかけられて失神するほど情けないくせに、庶民のパパゲーノを前にした途端、いきなり上から目線で偉ぶる。私は「上から目線」が大嫌いである。だが、パミーナはそんなタミーノにぞっこん。この二人はエンディングでくっつくのだが「ととさまバカならかかさまパー」を地で行く夫婦になるだろう。その他、後から後からろくでもない人物ばかりが出てくる様は、まるでかつての朝ドラ「チムドンドン」のようである。

その「魔笛」の序曲を聴いて、はれ?と思った。トロンボーンの音が聞こえるのである。トロンボーンは「神の楽器」といわれ、古くから教会で重用された。だから、ハイドンの天地創造や、モーツァルトのレクイエム(「妙なるラッパ」はトロンボーンで奏でられる)で使われていることは重々承知の助である。他方、教会の外では(世俗の世界では)、例えば、交響曲で最初にトロンボーンが使われたのはようやくベートーヴェンの時代になってからである。オペラは、交響曲に負けないくらい(あるいは輪をかけて)世俗的である。だから、魔笛の序曲でトロンボーンの音を聴いて、あれま!と思ったのである。考えてみれば、ザラストロの周りは宗教色一色で宗教儀式っぽいことも行われる。その際、三つの荘厳な和音が奏でられ、その部分は宗教音楽のようである。序曲の冒頭にもそれがある(赤枠がトロンボーン)。

それがトロンボーン採用のきっかけだったのかもしれない。だが、すましたフリをしていったん採用されればこちらのもの、とばかり、序曲のクライマックスでは大暴れ。

他を圧倒して鳴り響くその音(上の楽譜の赤枠の箇所とか。私は、ここでトロンボーンに気付いた)は、もはや美しい和音で神の世界を表すなんて感じではなく、マウントをとりに来ているとしか聞こえない。すなわち、世俗丸出しである。これが、ベートーヴェンの第五交響曲のトロンボーンにつながったと言ったら推測がすぎるだろうか。

そのトロンボーンこそが、私が最後に手にしたい楽器である。神様、これが最後のお願いです。どうか、私にトロンボーンをお与えください(……って、欲しいならとっとと買えば済む話である)。

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遊びに行きたい

2025-01-24 16:45:32 | 生活

るいが、住み込み先のクリーニング店で給料を受け取った際、おかみさん(演:濱田マリ)から何に遣う?と聴かれて「貯金」と答えると、「若くて可愛らしい子だったら食べたいモノや行きたい処があるだろう」、だから貯金などしてないで遊びに行けと怒られていた。

濱田マリさんのご指南をわがことのように受け止めたワタクシであった。

その際、ご指南をちょっとアレンジして、「歳とってみすぼらしい大人でも、飲みたいモノや行きたい処があるだろう」、だから少ない貯金を切り崩して遊びに行けと言われたことにした。

飲みたいモノとはワインであり、行きたい処は山や川である。山や川に行くのに貯金を取り崩す必要があるかって?ある。少なくとも電車賃がかかる。

いずれも痛風が治ったら、の話。かなり良くなったが、あともう少しというところで足踏みをしている状態である。そろそろ治る、と思ったところにゲリラ戦が仕掛けられる感じである。

と、ぐずぐずしているうちに、近所のスーパーのもやしが、ずっと29円に留まっていたものが39円になった。消費意欲に水を差すには十分な出来事である。

 

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