ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

2013-09-20 13:37:16 | Weblog
上海には、日本のいろいろな地方の出身者が集まる。
東京や大阪の場合は、会社があるだけで、出身は違う場所であることも多い。
東京育ちは、意外と少ない。
そして意外に多いのが名古屋の人。
というか、名古屋の話が始まって「こんなにいたの!」と驚かされる。

日本にいたころは、日本人の中に、こんなに名古屋出身の人がいると思っていなかった。
名古屋の人は愛知の人ではない。名古屋の人だ。
2人集まると区と中学校の話になる。そして意気投合すると高校の話になり、
残念ながら大学はほかの都市で・・・、
でもドラゴンズに対する愛情は一途です、みたいな話になる。
(だいたい展開は毎度同じだ)
もうまったく・・・、わからない。

考えてみれば、立派な空港もあるのだし、太平洋ベルトの中心だし、
日本を代表する自動車会社のお膝元なわけだから、
名古屋は産業が全体的に発達しているだろう。
だから、さまざまな産業の人が上海に来ていて当然だ。

が、東京人、大阪人に比べると名古屋人は、
どちらかというと、江戸っ子の定義に近いものがあると思う。

ちなみに、あの自動車会社の人の場合には、
出身が名古屋でないことも多く、彼らはあまり名古屋トークにはならない。
土地(国)よりも企業にコミットしている印象のほうが強い。

人というのは、自分の居場所があると感じるところに愛着をもち、
それを誰かと共有したくなるものだ。
中国人が仕事よりも家庭や一族を大切にするのは、そこに居場所があるから。
終身雇用が崩れた日本で、会社を一番に考えなくなったのは、
そこに最終的な居場所がなくなったからだ。

それでも、日本人が頑張って働くのは、
第一に生活のためと、
同じやるならこの仕事がいいかも、という愛着と、
将来の仕事にも通じる一段高い視線を身につけよう、という
仕事全体に対する価値観のためだろう。

シモーヌ・ヴェイユの『根を持つこと』に書かれていたことを思い出す。
自分のすべてを投げ出して、私はあなたの一部である。一部でありたい、と言う。
しかし、その「あなた」は、私を見ていてくれるとは限らない。
「あなた」と目が合ったと感じる奇跡は、一生のうちには訪れないかもしれない。
それでも信じ続けること。
形式的な何かを履行するのではなく、
私という殻のなかにある、世界中で唯一、私であると言えるかもしれない精神の
その根源と繋がりたいと思うこと。
そして、自分が苦痛を感じたときに生じる裏切りの気持ちと向き合うこと。

これは、自分がそれを信じ続けることができるか、
見返りがないものを愛し続けることができるか、ということで、
それこそが逆説的に、自分のよりどころになる。

名古屋の人との会話は、とりあえず共通点が少なく、
話題自体にはついていけないのだけど、
隣で「ぽえっ」という気分で聞いているのは、結構好きだ。
少なくても、地方出身のおっちゃんやヤンキーあがりが、
KTVにハマっている話をしているより、ずっと面白い。

ただ、たまに、でいい。