私は生まれながらの着物好き。戦中生まれで物のない終戦直後、
母が自分の古着から三歳の祝い着を作ったが被布の飾りには古い鼓の房
が付いていた。ずいぶん何度も着たのだろう、べたべたに汚れた小さな
被布は今も私のタンスにある。七歳の時は、母が派手になって長襦袢に
直していた縮緬、朱色の嵯峨菊が長い袂の祝い着になった。成人式もも
ちろん母譲りだったが、それらが大切にしまわれていた押し入れの茶箱
はいつも私の宝箱で、暖かい季節の虫干しは大事なイベントだった。
二階の座敷やベランダの手すりまでいっぱいに広げられた古着は、祖
父の着物や二重廻しと呼ばれるコート、ハイカラーのシャツや背広、父
の軍服やゲートル、進駐軍の放出物資だった変わったプリントの生地や
ワンピースなどもあった。美しい着物といえば、母が結婚した時の三枚
のみ。臙脂に近い赤い綸子の友禅小紋、若草色の裾模様、そして太い縦
縞が派手になったからと黒のよろけ縞を上から染めた小紋。中学生にな
るとまずは赤い友禅から私の晴れ着となった。
母が自分の古着から三歳の祝い着を作ったが被布の飾りには古い鼓の房
が付いていた。ずいぶん何度も着たのだろう、べたべたに汚れた小さな
被布は今も私のタンスにある。七歳の時は、母が派手になって長襦袢に
直していた縮緬、朱色の嵯峨菊が長い袂の祝い着になった。成人式もも
ちろん母譲りだったが、それらが大切にしまわれていた押し入れの茶箱
はいつも私の宝箱で、暖かい季節の虫干しは大事なイベントだった。
二階の座敷やベランダの手すりまでいっぱいに広げられた古着は、祖
父の着物や二重廻しと呼ばれるコート、ハイカラーのシャツや背広、父
の軍服やゲートル、進駐軍の放出物資だった変わったプリントの生地や
ワンピースなどもあった。美しい着物といえば、母が結婚した時の三枚
のみ。臙脂に近い赤い綸子の友禅小紋、若草色の裾模様、そして太い縦
縞が派手になったからと黒のよろけ縞を上から染めた小紋。中学生にな
るとまずは赤い友禅から私の晴れ着となった。