秋、自然の恵みと暮らし
洗濯機回して花の野の朝を見に
日本中が大雨、台風、地震で大騒ぎしているというのに八王子では雨ごとに涼しくなるのを喜んでいる。申し訳ないことだと思いながらも。
そろそろ春を迎えるオーストラリアでは、いつもなら雨の多いはずの冬に、まともな雨が降らず、乾燥して山火事の起こりやすい夏を前に、農家ならずとも、とても心配しているようだ。
乾燥し切った大地では、ほんの小さな火が草を燃やし山火事の原因となる。昔、ゴルフ場のティーグラウンドで、タバコを芝生の上に置こうとした夫が、一緒にいたおじいさんにとても怒られた覚えがある。町の中のあちこちに山火事の危険指数を表す大きな看板があった。春浅い今から外での火が禁止では、彼らの大好きなバーベキューは当分不可能になる。「滴る緑」という言葉はない国なのだ。
雨台風がいくつか過ぎて、今年はまだ町内の手作り橋はしっかりしている。台風直後の朝はベニヤ板を踏む足の裏が水の流れを感じるほどに増水していた。流れの中で小さな石は転がり、草は水の中で川下へと靡いていた。いつもクレソンを摘む透明度の高い水は、差し出す指をしっかりと押して強い。
ふと目を挙げれば赤トンボが舞い、葛の花が赤い。とげとげの溝蕎麦は金平糖みたい。
虎杖の花ほの赤し太古より
外来の種も多い野原だけれど、大方は万葉の時代、否、文字さえなかった時代からここでその生を継いでいるのだ。と、すぐ目の前を小綬鶏の一家が歩いている。人ひとり分の地面しか開いていない草原で私の足音に慌てて、一羽減り、また二羽消えてすぐにまた元の静寂に。彼らもまた自然界の先輩かもしれない。
よく行くゴルフ場にご神木の栃の木がある。春には紫の見事な花が咲き、今、たくさんの実が落ちている。樹齢がいかないとなかなか実は生らない、と聞いて納得、花の時はあちこちに見えたのに、実はここしか無い。「栃餅」という言葉に引かれ、物見高くて欲張りな夫婦だから、重たいほど拾ってきた。食べる方法を調べてみると、あく抜きに何か月もかかるとか、栗のような皮を剥くのに挫折したとか。なかなか強敵のようだ。これも万葉の時代には団栗のように工夫して重要な食糧となっていたのだという。
葛ももちろん葛餅として今に伝わっているけれど、野生のものは採る人もなく、藪枯らしならぬ山枯らしのような脅威となっている。
先人はこれらを自然の恵みとして受け継ぎ生きてきた。八王子には山の暮らしをよく知る人がまだ残っている。猪や鹿を駆除として狩る人たちは、茸や木の実にも詳しい。何とか若い世代に繋げていけないものだろうかと思っていたら、先日のテレビ番組で、若いカップルが自力で家を建て、畑と狩猟で生きていこうとしていた。猟銃を扱うのはなんと彼女の方だった。解体も自分でするという。
「私たちもこうだったね」
などと言っていたのに途中からは圧倒された。
都会者の我々など、狩猟はもとより、畑仕事さえできず、ありがたく頂戴するばかりだ。太陽光発電やパソコンの駆使が加われば、彼らの言う『自分のための暮らし』は素晴らしいものになるだろう。若い野人に乾杯!
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