豚も杓子も。

私にすれば上出来じゃん!と開き直って、日々新たに生活しています。

読み終えた・・

2007年11月20日 | Weblog
久々に、大部の作品を読み終えました。二ヶ月近く出かける時はいつも携えて、時間を見つけて読み進めていました。すべてのページに目を通した今、充実感と寂しさを味わっています。
感銘を受けた作品の内容そのものもさることながら、このところの習慣となっていたことが失われた喪失感・・。プチ空き巣症候群のようなものかもしれません。

加賀乙彦さんの「宣告」。文庫本で三分冊に分かれたこの長い作品は、また非常に濃い物語でもありました。死刑囚の収容されている拘置所がその舞台。陰鬱な設定、描かれている人々の灰色な様子に、最初に手にした一年前は読み通すことが出来なくて、そのままにしていた本でした。何かのはずみに手に取り、友人が作ってくれたカバーをせっかくだからと掛けて本を持ち歩くうちに、すっかりその世界に引き込まれていきました。日常生活とは別の本と私だけの世界が存在しているような、そんな時間を過ごしていました。

物語の初めでは、こんな人が死刑宣告されているなんて、犯した罪は政治的なものなのか・・と思わされるような知的で物腰の落ち着いた主人公。実は、血も凍るような凄惨な殺人事件の首謀者なのですが、その彼が精神的に極限まで追いつめられた中で到達した静かな日常とその最後までの数日が描かれている作品です。上・中・下に分かれた三分冊の二部までが、ほとんどアメリカのドラマ24と同じように、ある一日に費やされます。俯瞰とクローズアップ。その両方によって、死刑宣告を受けて同じ区域の独房にそれぞれ収監されている数人とその置かれた状況が克明に読み手に伝わってきます。
いつ行われるかわからない死刑執行。宣告そのものより、執行がいつ行われるかがわからない状況・・これが、非常につらい精神状態を導くというのです。自分の順番が今日か明日かと待つ彼らのうち、あるものは発狂し、あるものは自殺することによりその耐え難い苦しみから逃避しようとします。しかし、一部、そんな状況の中だからこそ、非常に深遠な境地に達することの出来た人の存在もまたあるのです。主人公が、まさにその一人でありました。信仰がその源にあるとはいえ、彼は悪に身を染めた自分という存在を通して、人間の枠を超えた真実を見出そうとし、ついには悪人である自分の存在さえも存在するに値するという思考の中に自分の存在の合理性を見出そうとしていきます。カトリックに帰依した主人公が到達した世界をそのままに理解することは到底出来ませんが、やがて迎えるであろう死の先、というより生の以前への世界こそみなが帰る場所、すべてが生まれるところという深い洞察は、死を宣告された人にだからこそ到達できる境地なのだろうということはおぼろげに理解できます。それが極刑を宣告されなければ彼には到達不可能だったのだということがひたすら悲しいことですが。人間の悪も善も超えた世界の存在と心を通わせている彼。16年という長い収監生活の中、懲罰に掛けられるほどの規律違反など一度もなく、収容されている様子を、ほとんど検閲といっていいほどの内容の審査を受けつつも本として出版した著者でもある彼。その監督者からも一目置かれているいわば優れた人格者と見なされるにいたった現在を迎えた彼ですが、その状況はなんら彼に下された宣告を覆す力を持ちえません。彼が人生で始めて心から喜びを覚えたとする人との初めての対面の翌日に宣告の執行が告げられます。彼は、しかしながら執行を喜んでいるとも思えます。それは、執行の日が来ることの恐怖にさいなまされることから逃れるというよりは、それが彼にもたらされるべきこととして受け入れられることができるためのようでした。
最後の儀式を滞りなく終え、刑の執行に携わる人へのねぎらいをすら口にし握手を求めて、最後の階段を登っていった彼。その様子は、彼に心通じるものを見出し、自ら志願して立会い人となった若い医官の目で克明に描写されます。彼は最後の夜にその医官に、いつか自分の喜びの拠り所になった人に会って欲しいと告げていました。医官とその人・・一年近く彼と文通していた相手である心理学専攻の女子大生・・とが、彼の死後に会い、それぞれの中で生きている別々の彼の姿が二人の中で交じり合いなお生き続けていくことが温かい希望として残るような、そんな読後感が漂ったのが救いでした。
彼の心境、悪の本質に迫る思考。そういうものと日々数ページずつ過ごしていくことは、本から目を上げて自分の生きている現実に戻った時に、ほっと安心するような心持を与えてくれました。今生きていることに感謝しよう。日々この一瞬を楽しもう。そんな他愛もないことしか浮かんでこないことが少々残念ですが・・。

作品の中では、映画のオムニバス形式のように、一人一人の死刑囚の罪にいたる過程なども記されていました。「宣告」の主人公の場合・・。これは、裁判で有利な結果を得るためということもあり、彼の性格に異常性を認めることでその犯行に及んだ理由付けが行われていました。その異常性格を作ったものは何か?もともとの資質にそれが求められて裁判は進められ、彼自身もその大きな流れに抗うことなく審理は終了したわけですが、裁判では詳らかにされなかった彼の成育過程の可哀想な状況が、生来の彼の特質以上に彼の性格形成に大きな影響を及ぼしたのではないかと思いました。
その大きな原因は、長兄、そして母親にありました。母親は早くに夫を亡くし、教師として一家を支えてきた職業婦人の先駆けとなったような人です。しかし、この人物は母親としてはどうなのか・・という態度をしばしば見せてきた人でもありました。幼い子を一人で長い道のりかかる幼稚園に通わせる。小学生の彼が盲腸で病院に担ぎ込まれた時に駆けつけても来ず付き添わなかったばかりか、術後数日経ってやっと面会に来る。空襲で命からがら逃げ帰った高校生のわが子の姿に喜びもせず労わりの言葉すらかけない。長兄の家庭内暴力もなすがままにさせるというまことに情が薄いとしか思われない女性なのです。
一人一人に焦点を当てながら、この母親が自分の言葉でここにいたる状況を述懐する場面はありませんでした。同じ母親として、各場面ではいったいどういう心境だったのか・・それを知りたいと今でも思います。
そんな母親ですが、息子が16年間収監されている間は、毎週遠いところを通って面会に訪れ、優秀な弁護士を雇い、徳の高い神父に息子との面会をお願いし、ついには洗礼を受けさせるという献身的な振る舞いをみせます。気持ちの離れていた息子もしだいに母親に心を開き、母も最後の日には拘置所を出る車に無防備に駆け寄り最後の別れを告げるという情愛を示します。
であればこそ、幼少から青年期にわたっての母親と彼との関係を母親側からの目線で語ってもらいたかったと思うのです。作品としては冗長なものになりかねませんが、本当に興味あるところなのです。

ところで、例の空き巣症候群・・。
克服するべき対象の示唆を受けました。
「カラマーゾフの兄弟」。
新訳の広告を見て気になっていました。
とりあえず、二部まで手に入れました。

でも、本のカバーを掛け替えるのは、もうしばらく後にしようと思います。