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【小倉百人一首】58:大弐三位

2014年07月17日 01時12分26秒 | 小倉百人一首
大弐三位

有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

この名前だと誰だかわからないが紫式部の娘。そして著名な母は本名不明なのに、こちらは賢子という名がわかっている。
大弐という呼称は夫の高科成章の官職・太宰大弐から。三位は自身が従三位だから。ちなみにこれだけの皇位に登ったのは自身が後冷泉の乳母だからである。当時は高貴な貴族は自身で子育てすることはせず、このように女官を乳母にしていた。

【小倉百人一首】57:紫式部

2014年07月16日 03時41分07秒 | 小倉百人一首
紫式部

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな

『源氏物語』の作者。女流文学者としてはおそらく日本史上、最も著名な女性。
前回の和泉式部と同様、藤原彰子に仕えている。
父は藤原為時。夫は山城守・藤原宣孝。

冬嗣┳良房━基経━忠平━師輔━兼家━道長━彰子
  ┗良門┳利基━兼輔━雅正━為時━紫式部
     ┃            ||━大弐三位
     ┗高藤━定方━朝頼━為輔━宣孝

仮名文学だけでなく漢学についても才能を示しており、多才な女性であったといわれる。有名人にふさわしくエピソードも豊富だが、この時代の女性の例に漏れず本名・生没年・結婚暦には謎が多い。そもそも”紫”という呼び名の由来すら判明していない。

ちなみに父・為時も文人として有名であったが、996年正月の除目(任官)で最下級ランクの国である淡路守に任官されたとき、失望して作った詩を一条天皇に奉った。それを読んだ一条もショックを受けてげっそりしてしまい、その様子をみた藤原道長はなんと為時が淡路守に任官されたのと同じタイミングで越前守に任官されていた源国盛(光孝源氏)に無理やり辞表を書かせて為時を越前守に任官させた。ちなみに源国盛はあまりのショックで病んでしまい死去する。

『源氏物語』は周知のとおり桐壺帝の皇子で臣籍降下した光君と、その息子の薫大将の親子二代(薫の本当の父は柏木だが)を主人公にした小説。ただこの小説にも様々なミステリーがあり、執筆期間、散逸した箇所があるという説、そもそも作者が紫式部ではないという説すらある。
というのも、この物語は源氏が他の大臣(名前はでていないがこの時代の大臣は藤原氏しかあてはまらない)を押さえつけて栄達する内容であり、それを藤原氏出身で藤原彰子に使えた紫式部が書くだろうか、という疑問が提示されたから。
ただ、式部が生きた時代には賜姓源氏がでてから200年近く経っており、貴種でありながらも藤原氏の下風に立たされ皇室の藩屏として機能しなくなりつつある彼らがどのようにみられていたかをしる一助にはなる。
また、安和の変(969年)で大宰府に左遷された源高明を彷彿とさせるようなくだり(光君が政権の中枢から駆逐される)も、当時の人たちは妙なリアリティを感じたのではないだろうか。

いずれにしろ『源氏物語』が構成の精緻さ、普遍的な男女の機微の描写、百人を超える人物の巧妙な配置、主要人物たちのリアルな人物描写など、日本文学史上の最高位に位置する作品であるという評価は動かしがたく、これ以降の文学作品で影響を受けていないものはないといっても過言ではないだろう。



【小倉百人一首】56:和泉式部

2014年07月16日 02時51分38秒 | 小倉百人一首
和泉式部

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

例によって本名ではない。和泉は最初の夫である橘道貞の官職(和泉守)からで、式部は父・大江雅致の官職から。
道貞との間に小式部内侍を生んだが、結婚生活は後に破綻。その後、冷泉天皇(63代)の皇子である為尊親王と恋愛したが、身分違いの恋を怒った父に勘当される。
さらに為尊親王の死後はその弟の敦道親王と恋をし、子をもうけている。
その敦道親王没後は一条天皇の中宮である藤原彰子に仕えた。
この藤原彰子は道長の長女で、彼女が子(後の後一条天皇)を生んだ時は道長は狂喜した。
が、一条は自分の次の皇位を従兄弟にあたる三条に譲り道長を怒らせている。ちなみに三条の父は冷泉で、母は道長の姉にあたる超子。
そこで道長は三条に対し、速めに譲位するよう圧力をかけ、三条自身も眼病があったり内裏に火災が起きたりと災難続きだっため、自身の次代は彰子が生んだ子(後一条)にする代わりに、その次は三条の子である敦明親王にすることを条件に退位する。ちなみに敦明親王の母は下の系図のとおり。

           ┏━━━━━嬉子
           ┣━━威子 ||
┏師輔━兼家━道長━━┻彰子||  ||┳後冷泉
┗師尹━済時━娍子   || ||  ||┗後三条
       ||━敦明 ||┳後一条||
 村上┳冷泉┳三条   ||┗━━━後朱雀
   ┃  ┣為尊親王 ||
   ┃  ┗敦道親王 ||
   ┗円融━━━━━一条

が、結局この敦明親王は道長の圧力に負けて後に皇太子を辞退することになる。
後一条が即位することでようやく道長は念願の摂政になり(ちなみに道長は関白には就任していない)、ここから道長の絶頂期が始まる。
その後彰子は国母として朝廷から尊崇される立場と成り、道長死後は弟の頼通の政治を助ける。
彰子は長生きし、二人の息子(後一条、後朱雀)、孫の後冷泉より長生きした。ちなみに一時危篤になった時には病気平癒のための大赦がだされ、前九年の役も一時休戦となっている。

【小倉百人一首】55:大納言公任

2014年07月12日 03時45分42秒 | 小倉百人一首
大納言公任

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ

本名は藤原公任。父は関白・藤原頼忠。母は醍醐天皇の孫で妻は村上天皇の孫という血筋でもある。
頼忠は関白であったものの、時の天皇である円融とは外戚関係になかったために歴代の関白と比べると権力はそれほど強くなく、源雅信、藤原兼家にも押され気味であった。後に花山天皇が兼家のはかりごとで出家してしまい、兼家の孫にあたる一条が即位すると関白を辞職せざるを得なくなった。


     ┏斉敏━実資
  ┏実頼┻頼忠━公任━定頼
忠平╋師輔┳伊尹義孝
  ┗師尹┣兼通   ┏伊周
     ┣兼家┳道隆┻隆家
     ┗為光┗道長━頼通


ただ、公任は時の権力者である藤原道長の意を迎えるスタンスを貫いたため順調に出世して権大納言に登っている。また、和歌、漢詩、管弦、有識故実にも優れ、当時の一流文化人として評価は高かった。
また、『三十六人撰』で三十六歌仙の選定を行ったことでも有名で、この一事を持っても彼の歌壇における影響力の高さがうかがえる。
中古三十六歌仙の一人・藤原長能(右大将道綱母の弟)は、自分の歌を公任に批判されたことを気に病んだ死んでしまい、同じく中古三十六歌仙の一人・藤原高遠(公任のいとこ)は公任が病で重態と聞くと、彼のところに行って「自分の歌と紀貫之の歌はどっちが上か」と聞いたというエピソードもある。
ちなみに『三十六人撰』を書いたきっかけは、柿本人麻呂と紀貫之のどちらが歌人として優れているかという論争を具平親王(村上天皇の皇子)とし、それに論破されてしまった(具平親王の推す人麻呂の方が優れているという結論になった)ことといわれている。

有識故実といえば、彼の曽祖父・忠平は数多くの宮廷儀礼の作法を書き残し、それを実頼、師尹の二人の息子に伝えた。そして実頼の家が伝える作法を小野宮流、師尹の家の作法を九条流としてそれぞれ有識故実の大家として流れていき、公任自身も『北山抄』という儀式について書いた著作が残している。
ちなみに当時の貴族は日記を書くのが流行したが、これは現在の日記のように日々のプライベートな出来事を書くことが目的ではなく、宮廷の儀式についての覚書というのが本質で、それを自分の子孫に伝える目的も兼ねていたため最初から公の目にふれることが前提となって書かれている。

1019年、在任中に刀伊の入寇という事件が起きている。
これは女真族を中心とした海賊が対馬や北九州沿岸に寇略に現れた事件で、当時大宰権帥として大宰府に赴任していた藤原隆家を中心とした九州武士団が撃退して事なきを得た。朝廷へも隆家から報せが飛び、撃退すれば恩賞を出すという勅符が発せられた。が、実際にその勅符がでた時点で退治していたため恩賞はなし、という信じられない決断が下された。この決断に深く関わったのが公任である。公任一人が非常識というわけではなく、この時代の貴族たちの政治感覚とはこういうものだろうといえなくはないが、藤原実資(高遠の兄)や、道長などは恩賞をだすよう主張していたため、やはりこの事件は公任の汚名といえる。

ちなみに隆家は摂関家の貴族でありながら気骨のある人物として知られており、この事件でさらに武名をあげることになる。隆家の子孫には前回書いたとおり池禅尼がいるが、そのほかにも奥州藤原氏の藤原秀衡の舅である基成や、基成の弟で、源義朝を抱き込んで平治の乱を起こした挙句敗れて斬首された信頼、源義経の母・常盤御前の再婚相手である一条長成がいる。

【小倉百人一首】54:儀同三司母

2014年07月10日 19時34分16秒 | 小倉百人一首
儀同三司母

忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

この時代の女性には珍しく本名がわかっている。高階貴子である。
摂政・藤原兼家の後継者である道隆に嫁ぎ、三男四女を生む。


   貴子┏伊周
   ||━╋隆家
兼家┳道隆┗定子
  ┃   ||━敦康親王
  ┣道兼 一条┏━━━後朱雀(後一条の弟)
  ┃   ||━┻後一条 ||
  ┗道長┳彰子 ||   ||━後冷泉
     ┣━━━威子  ||
     ┗━━━━━━嬉子

夫の道隆は摂政・関白を父から継ぎ、娘の定子は一条(66代)の中宮となり権力は絶頂に達する。ちなみに中宮というのは皇后とほぼ意味は同じだが、定義はあいまいであった。そこで道隆は定子が一条天皇の「女御」よりも格上にするために皇后と中宮を分離させて、定子を中宮にした。後に道長が彰子を一条に入内させる際にも、今度は定子を皇后にして、彰子を中宮にすべりこませている。
道隆の死後に藤氏長者となった道兼は数日で死去、そして貴子の息子の伊周・隆家は叔父にあたる道長との権力闘争に敗れた上に花山法皇に矢を射掛ける事件を起こしたために左遷となり、この家は没落していくことになる。定子は兄たちが起こしたこの事件を期に内裏をでて出家するが、一条の意向で内裏に戻される。
さて、伊周の方は復位を許されたものの左大臣・右大臣・内大臣はすでに先任者がいたため、「内大臣の下、大納言の上」という中途半端な位置づけとされたが、この立場を中国後漢王朝の故事になぞらえて「儀、三司に同じくす」と表現して儀同三司と自称した。

高階氏は定子が一条の中宮になったのを機に朝臣の姓を授けられる。その後高階氏の血統からは平清盛の妻(重盛、基盛の母)がでており、南北朝時代には足利尊氏の執事として権勢をふるい楠木正成を湊川で破った高師直、師泰兄弟がいる。
また、貴子の息子・隆家の子孫からは平清盛の継母であり、平治の乱で平氏にとらわれた頼朝の助命を清盛にねだった池禅尼がいる。