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【小倉百人一首】53:右大将道綱母

2014年07月10日 18時09分56秒 | 小倉百人一首
右大将道綱母

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

『蜻蛉日記』の作者で、この歌もそこからとられている。
人臣初の摂政となった藤原良房の兄・長良の孫である倫寧の娘。関白・藤原兼家に嫁ぎ、その名の通り道綱を生んだ。
また、本朝三美人の一人とも言われている。また、義姉は清少納言の姉である。さらに妹は菅原孝標に嫁ぎ、生んだ娘が『更科日記』の作者である。
弟の長能・息子の道綱とともに中古三十六歌仙に選ばれている。


 清原深養父━春光━元輔┳清少納言
            ┗娘(清少納言の姉)
             ||  菅原孝標
            ┏理能 ||━孝標娘(更科日記作者)
            ┣━━━娘
┏長良━惟岳━倫寧━━━┻道綱母
┃             ||━道綱
┗良房━基経━忠平━師輔━兼家━道長


『蜻蛉日記』は19歳の頃から38歳までの約20年間もの間をつづった女流日記文学のさきがけ的なもので、主に家庭内の様々な出来事や旅先の見聞などが書かれている。なぜ38歳でとまったかは不明。ちなみに『更科日記』の方は作者が13歳の頃から晩年まで40年間をつづっている。
息子の道綱の方は政治家としての才能はなかったようで、同時代人で道長の批判者でもあった藤原実資から「自分の名前に使われる漢字以外読めない」とばかにされている。そのくせ家柄はいいから大納言筆頭の地位にあり、左大臣だった藤原顕光(この人も無能で有名だが)が辞職するという噂がたったとき必死に顕官運動をし、1ヶ月限定でいいから大臣をやらせてくれと道長らにせがんだが、顕光の辞職自体がただの噂だったため、空騒ぎに終わった。

【小倉百人一首】52:藤原道信朝臣

2014年07月10日 01時17分35秒 | 小倉百人一首
藤原道信朝臣

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

3人連続で藤原氏。
この道信の父為光は太政大臣。為光は師輔の九男となる。


  ┏実頼━頼忠
忠平╋師輔┳伊尹┳義懐
  ┗師尹┣兼通┗娘
     ┣兼家 ||━道信 
     ┗━━━為光

和歌の名人として名をはせており、藤原氏には珍しく奥ゆかしい性格といわれた。
父の為光は兄である伊尹や兼通からかわいがられ順調に出世するが、兼通没後に兼家が権力を握ると政敵のような間柄になり、結局は兼家の下風に立つことになる。為光の次の太政大臣が藤原道長である。

【小倉百人一首】51:藤原実方朝臣

2014年07月10日 00時43分41秒 | 小倉百人一首
藤原実方朝臣

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを

藤原忠平のひ孫にあたる。

  ┏実頼━頼忠
忠平╋師輔━伊尹
  ┗師尹┳定時━実方
     ┗済時

 ※実父は藤原定時だが済時の養子となっている

百人一首の中でも屈指の技巧を極めた歌。
「言ふ」と「伊吹」、「思ひ」と「火」という二組の掛詞は叙情・情景の両方の意味を持たせ、さらに「さしも(そうとも)」と「さしも草(モグサ)」の掛詞にそれぞれつながっている。さらに「さしも草」「燃ゆる」「火」と縁語を重ねている。

有名なエピソードとして、前回の藤原義孝の息子であり三蹟の一人である藤原行成に自分の歌がけなされたため、一条天皇の目の前で言い争いをして行成の冠を投げ捨てて一条の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」といわれて陸奥に飛ばされたというのがある。

ちなみにこれまでにも何人か朝臣という呼称がつく人物がでてきたが、この朝臣は姓(かばね)という。由来は天武天皇の時代までさかのぼる。684年に八色の姓というものが制定された。これは簡単にいえば爵位みたいなもので、皇室に対して功績のあった氏族に対して下賜された。ちなみに上から順に真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)。臣と連はそれより前から存在していて、最高位に位置していたがこの制定で下位に位置づけられた。
真人は皇室の人間に与えられたので人臣の最高位は朝臣ということになる。ただ、奈良時代以降連発されたため、爵位の意味はあまりなさなかったという。

ついでに書くと、明治以前は出身氏族をあらわすのが氏、氏の中で特定の血統をあらわすのが家または苗字。そして下の名前が諱。
例えば徳川家康の場合は氏が源(といっても自称だが)、家が徳川、諱が家康となる。家はたいてい住居としている土地名や、領地名からとられており領主の証という役割もあった。藤原は氏なので厳密に呼称するなら藤原家ではなく藤原氏となる。

氏は基本的に天皇から下賜されるので勝手に名乗ることはできず、豊臣秀吉の場合も関白になるために近衛前久の猶子となって近衛が家(苗字)となった後、天皇から豊臣という氏を下賜されたので豊臣”氏”となる。ただ豊臣の語源についてはわかっていない。


【小倉百人一首】50:藤原義孝

2014年07月07日 01時28分46秒 | 小倉百人一首
藤原義孝

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

藤原伊尹の息子。実は21歳で天然痘のために死んでおり、当然詠んだ歌は少ないはずなのだが百人一首にとられているあたり早熟だったのだろう。美男としても知られる。
当時天然痘がはやったらしく、兄の挙賢も同じ病で同日に死んだ。

ただ、息子はおり、それが三蹟の一人の藤原行成である。祖父である伊尹の猶子(相続権を持たない養子)となったが、伊尹が死去し、ついで父が早世したため、若い頃は不遇をかこつ。
が、後に能吏として知られる源俊賢の推挙により蔵人頭に抜擢され、その勤務態度も評価されたのか時の権力者である藤原道長からも信任を得る。偶然にも死去したのは道長と同日であった。

【小倉百人一首】49:大中臣能宣

2014年07月07日 01時18分31秒 | 小倉百人一首
大中臣能宣

みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ

三十六歌仙の一人で、清原元輔と同じく「梨壺の五人」の一人として、『後撰和歌集』の撰集にあたった。父の頼基も三十六歌仙に入っている。
歌人として非常に高名であったが、百人一首にとられたこの歌に限ってなぜか本人作ではないというのが定説。