墨田区役所職員のOB会が両国第一ホテルでありました。今年から幹事を引き受けたので早めに家を出ました。それでも早すぎたので、近くにある旧安田庭園を散策しました。前にも何回か行っていますが今回は隅々まで見て回りました。震災記念堂の方から入りました。
★ランドマーク旧安田庭園:この地は元禄4年(1691)、後の常陸国笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は、宗資が築造されたと伝えられていれる。中央に「心」字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。
明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者初代安田善次郎氏の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年(1922)東京市に寄付された。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸宅跡は寄付者の名前を冠して「旧安田庭園」と命名した。昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による庭園として初めて一般に公開された。
昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に名園といわれた往時の姿に復元した。
平成8年(1996)明治時代の代表的な庭園として、東京都の「名勝」に指定された。(以下略)墨田区
指定理由:旧安田庭園は、大名庭園の1つ(潮入り池泉回遊式庭園)で、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的な庭園であることから、平成8年3月に「東京都指定名勝」となりました。
かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園でした。尚、このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園があります。 隅田川のよごれが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されています。現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプにて人工的に潮入が再現されています。
心字池から東京スカイツリーが見えます。
公園の一角に立つ建築中の建物は渋谷区にあった「刀剣博物館」が移転してくるそうで、この10月にもオープン予定のようです。
ここには以前両国公会堂でした。
2013年4月撮影
★ランドマーク両国公会堂:両国公会堂は安田財閥の寄付金をもとに、東京市政調査会によって建設されました。当時の名称は本所公会堂でした。竣工したのは大正15年(1926)。震災の記憶も生々しい時期でした。隣接する被服廠では、震災時の火事により数万人もの人が焼死し、本所一帯は焦土と化したのですから、この建物は復興の象徴のように映ったに違いありません。
しかし、やがて戦時下を迎えると、公会堂は食料配給所に当てられ、敗戦後には進駐軍のクラブとして接収されました。数奇な運命に翻弄された建築物といえます。800席たらずの小さな劇場でしたが解体され、跡地に建った建物は「刀剣博物館」になります。
この景色を背景に結婚式用の写真撮影をしていました。2013年4月撮影木が茂っていなければ、両国国技館の屋根が見えます。
こちらも2013年の撮影の雪見灯篭です。
これは7月7日に撮ったものです。
こんな燈籠もありました。
心字池の中之島
汐入の何かを示す石碑のようですがわかりません。
こちらは11重の塔
こんな石碑が建っていました。
この脇には
駒止石: 三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。
しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休息したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が、忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀ったということだそうです
高札に描かれているのは、次の葛飾北斎の馬尽駒止石です。
こちらは駒止井戸です。
駒止稲荷神社です。
。
由緒書きは全く読めません
が、駒止石の由緒と同じように書かれているのでしょうか。
狛犬
水盤は寛政12年{1800年)と銘記されています。
両国駅、国技館方面からの入り口です。
改装計画があるようで太鼓橋も朱の色が剥がれていました。これは2013年の撮影です。
こんな石像がありました。
日陰のアジサイはまだ見頃でした。
少し早かったのですが、
真ん中奥のビルが第一ホテルですのでそこに向かいました。最上階25回から見た風景です。
庭園から隣に見えた両国国技館です。
東京スカイツリーもよく見えました。