新宿文化センターでうたごえ喫茶ともしびの秋の大うたごえコンサートに行ってきました。少し早めに出て近くの社寺仏閣を散策しました。新宿三丁目駅で降りて最初目標にした法善寺に向かって歩きました。出来ればその先の抜弁天に行きたいと思っていました。迷いながら東京医大まで行き、さらに小道を歩いていて寺院があったので、もしや目的法善寺と思いましたが西光庵でした。
入り口に新宿区指定の有形文化財が保管されていると看板に書いてありました。
行く前に江戸時代の古地図を見て行ったのですが、ここは西光寺の所のようでした。
時間もあまりなったのですが、せっかくですので散策してみました。地蔵尊があるようですが、手前の墓地に入ってみました。これは千両みたいです。
奥まで入って行くと徳川とかかれた大きな墓石がありました。最初の墓石は徳川 義宜(とくがわ よしのり)の墓のようでした。=1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。
最も奥には徳川慶勝の墓がありました。
「従一位勲二等徳川慶勝卿墓」と書かれています。徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。三男が徳川義宜(尾張藩16代藩主)で義宜が死んだので第17代当主をやったようです。(ウイキペディアより)義宣と義勝の墓の間にあるのは義勝婦人徳川準子さんの墓のようです。
徳川準子(貞徳院矩姫)天保2年(1831)~明治35年(1902)
福島二本松の大名丹羽長富の三女として生まれる。名は於矩。19歳で尾張家14代藩主慶勝の夫人となる。植松茂岳、有経に和歌を学ぶ。『貞徳院殿和歌集』がある。
徳川の墓の入り口に近衛隊の石燈籠が建っていました。墓も秋めいていました。クチナシの実ですか?
コンサートの開始時間もあるので、西光庵を出て適当なところを左に折れていくと西向天神社に出ました。一度前に来ているのですが再度散策してみました。
古地図に富士山が書いてあるので富士塚がどこかにあるのではないかと探して歩いていましたが、ここにありました。
富士塚は天保13年(1842年)に築かれたようですが、大正14年6月に再築記念と書かれています。大震災で壊れでもしたのでしょうか。
★ランドマーク富士山信仰:富士山を信仰の対象としている富士浅間信仰という信仰がある。この信仰では富士山に登山することが修業にあたるのだが、江戸時代にはなかなか実際の登山はできなかった。そこで地元に富士山のミニチュアを作り、そこに登ることで富士登山を疑似的に体験する施設が作られた。それが富士塚である。
富士塚は大きいもので高さ十m程度で児童公園の築山ほどの大きさであるが、富士山から運ばれた溶岩が積み上げられ、本物の富士山同様の登山ルートと要所要所の信仰対象が再現されている。
戦没者慰霊碑西向天神祠碑です。
紅梅林
神楽殿
神楽殿鏡板の絵:根本に笹をあしらった一本松の彩色の版画であり、大和絵の大家である高取雅成が描いたものどということです。
お百度石拝殿こちらは2014年4月の時の写真です。
★ランドマーク西向天神社:安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗の天神とも呼ばれます。「江戸名所図会」ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの祭に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。
天正年間(1573-92)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠が建てられ、その後、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った祭に、元信という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。
別当寺であった梅松山大聖院は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。
境内には、太田道灌の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。大久保菅公廟碑
これは天神さんとどんな関係があるのでしょうか・家で調べてみました。
「新宿の女」を作詞した石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して平成11年(1999)に建てられたものだそうです。
西向天神社は、「新宿の女」のキャンペーンのために二人が新宿の飲み屋街を25時間ぶっ続けで流して回るという「新宿25時間キャンペーン」のスタートを切った記念の場所だそうです。http://walkerhide.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e6d7.htmlこちらの方が書いておられました。
奥にあるのは
大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ2巻5冊1葉である。
内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神社の由緒に関するものが多いが、文政7年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。
点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。(新宿区教育委員会掲示より)
★ランドマーク大聖院:大聖院は、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。墓には寄れませんでした今度ぜひ見たいです。
こちらは紅葉林この石仏の由来はわかりませんでした。こちらもわかりません。
ここはかなり段差がありますが「紅血の碑」にちなんで山吹坂というそうです。
★ランドマーク紅血の碑:伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
坂(今は階段)を降りて下から見上げています。
富士塚を下から見ています。左側の上になります。
回り道しましたがコンサート会場に着きました。この写真を撮っていたら後ろの女性に怒られてしまいました。