ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

湯島聖堂(文京区湯島)江戸名所図会めぐり

2017年09月28日 13時12分23秒 | 江戸名所図会めぐり

湯島聖堂は何回か訪れていますが、この9月にも、三楽病院の帰りに散策してみました。御茶ノ水橋を渡ってこの道を下ってきました。足元のところに古跡昌平坂と書いて書いてありました。

今歩いてきたところなのか神田明神に向かう坂を言うのか迷っていたらいわれが書いてありました。

★ランドマーク相生坂(昌平坂):神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。

  『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。

  昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

ということで神田川に沿っての坂は相生坂、神田明神の方に向かう坂を昌平坂とよんでいたが、相生坂も昌平坂というようになっかようですです。

帰りがけに

聖橋の上から昌平坂を見てみました。左手の木々のところが湯島聖堂です。

神田川の上を地下鉄丸の内線が走っています。

一般の入り口から湯島聖堂の敷地に入りました。

入り口のところに案内板があります。

★ランドマーク湯島聖堂:寛永9年(1632年)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄3年(1690年)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政11年(1799年)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大学を此地に置くに及び、一旦 孔子 以下の諸像を撤去せしも、後、もとに復せり。

 建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしたが、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和10年(1935年)4月4日鐡筋混凝立構造(てっきんこんくりーとこうぞう)に依りて原型に複せり。

   昭和11年(1936年)3月 文部省

★仰高門 -ぎょうこうもん-鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。 延面積10.73m2、昭和10年(1935)4月竣工。

 仰高門-仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。 曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。

 上野林家の先聖殿創建時には無い。元禄3年、湯島移築の際には見える。

正面にある建物は斯文会館です。

 

江戸名所図会より

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」より

キャプション 『新葉集』釈尊

 から人のむかしのかげをうつし来てあふげば高き秋の夜の月 妙光寺内大臣

この図では右下の坂が昌平坂になっています。

奥に神農廟があるようですが11月23日しか入れないようです。

★神農廟 -しんのうびょう-

元禄11年(1698)4月、聖堂構内東北の隅に祠堂を建て、神農像を祀った。この神農像は、寛永17年(1640)徳川家光の命により、山下宗琢が建立。作者は、明石清左衛門、藤原真信。雑司谷薬園に祀る。 明治16年(1883)浅田宗伯が医生の養成のため温知黌を開き、その労により浅田家に神農像が下賜された。のち、木村博昭が浅田家を継ぎ、像は本郷曙町の木村家に移る。 昭和18年(1943)神農像が木村家より斯文会に寄贈され、6月末、敷地内東角に神農廟を移築。これより毎年、11月23日に神農祭を挙行。

※11月23日のみ一般公開しております。

仰高門を入ります。通路にお茶の木でしょうか、花が咲いていました。

突き当りに大きな木があります。楷樹とあります。

★楷樹の由来 楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科 PISTACIA CHINENSIS,BUNGE(Pistacia Chinensis Regel)

楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。

わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。

その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。

中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。

孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。

昭和四十四年秋日   矢野一郎 文並書 となっていましたが今のものは平成二十二年に松川 玉堂 さんが書きなおしたようです。

★孔子銅像:昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。11月3日除幕式を挙行した。

 丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大。

子曰、有教無類。(論語)

〔読み下し〕
(し)(のたま)わく、(おし)え(あ)りて(るい)(な)し。

〔通釈〕
孔子云う、「人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない」と。

 

入徳門 -にゅうとくもん- 木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2  宝永元年(1704)建造。

 

 入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。

手水場

過日の台風の影響か木が裂けていました。

杏壇門 -きょうだんもん- 間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。

 杏壇門-杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられた。

門の並びにある天水鉢に水がいっぱい入っていました。おかげさまで蚊に少し刺されました。

大成殿 -たいせいでん-  間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。

 大成とは、孔子廟の正殿の名称。   宋(北宋)の仁宗のとき命名。

 「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。 殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀る。

外廊下の所に

歴史についてのパネルがありました。

いつもは気づかなかったのですが屋根の上の守護獣です。

錦絵にも描かれています。広重 名所江戸百景  

昌平橋聖堂神田川 より

神田川と相生坂、聖堂の塀が描かれています。

神田明神と聖堂の屋根です。北斎 新板浮絵神田明神御茶の水ノ図  です。

江戸の切絵図でも神田明神と聖堂は隣り合わせになっています。

今回は訪れませんでしたが以前神田明神で撮ったものです。

キャプション『新葉集』釈尊 

から人のむかしのかげをうつし来てあふげば高き秋の夜の月 妙光寺内大臣

 帰りがけにお茶ノ水に、向かう聖橋で振り返ったらビルにレリーフが見えました。

以前に調べたところ「記念壁画レリーフ」ということで「中央はヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれているラファエロ作「アテネの学堂」であり、対話による教育の原点を表しています。左は医学の父ヒポクラテス像とあるべき医師の心得とされる「ヒポクラテスの誓い」、右は1846年マサチューセッツ総合病院で行われた歯科医師モートンによる世界最初の全身麻酔公開実験を描いたロバート・ヒンクリーの作品です。
これらの壁画レリーフは、「教育」「研究」「診療」を題材としており、医歯学総合研究科・保健衛生学研究科の誕生により大学院重点化大学となった本学が、21世紀を迎えた今日、世界的拠点となるべく歩み始めたことを記念して作製されたものです。」と医科歯科大のHPに書かれていました。

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萩寺(龍眼寺、江東区亀戸)昔を偲んで

2017年09月24日 23時38分37秒 | 江戸名所図会めぐり

自宅の近くに江戸時代に萩寺とよばれていたお寺さんがあります。萩のシーズンなので散策しました。近くなので毎日でも行けるのですが、ブログ用に撮ってきたものをアップします。

横十間川に面している山門です。江東区の案内板があります。

★ランドマーク龍眼寺:龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。(江東区掲示より)江戸名所図会より

キャプション 庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ)に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし

江戸時代の切絵図ではこのようになっています。

境内にはたくさんの歌碑がありますが、古いので価値があるのかなという程度でしたが、百花園でもそうでしたが風流人は歌を詠んでそれを歌碑に残したものと思うようになりました。

入り口には芭蕉の句碑があります。

つき見とも見えず露あり 庭の萩 其角

 芭蕉句碑
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩   芭蕉

山門を入ったところに江東区の案版が二つ本尊の木像聖観音菩薩立像

江東区指定有形文化財(彫刻)
 木造聖観音菩薩立像 一躯
     平成12年(2000)3月27日指定

 聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
 本像は東武に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
 本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
 平成14年(2002)3月 江東区教育委員会

江東区指定文化財の庚申塔です。万冶2年(1659年)在銘

庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、60日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の扉を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。

  本庚申塔は万治2年(1659)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ10組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。

 龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治2年(1659)は、柳島村の成立した所期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。

  平成20年(2008)3月 江東区教育委員会

庚申塔は萩で覆われていました。

芭蕉句碑

濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩   芭蕉

地蔵堂に近づいてみたら子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)、優しいお顔の地蔵さんです。

地蔵尊のまえに句碑

森総彦句碑

 青梅や 小さき息を 大切に    総彦

 布袋堂です。

庭にはまだ新しい石像が置いてあります。

落合直文の和歌     萩寺の萩 おもしろし  つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ    直文

 石田波郷・石塚友二 句碑    槇の空 秋押し移り ゐたりけり   波郷              たかむなの 疾迅わが背 越す日かな    友二     

 水盤延享2年在銘

★春明法眼之碑:河野春明ハ幕末ノ刀装金工界ニ活躍シ 古今未曽有ノ名工トシテ天下ニ知ラル 天明7年西暦1787年ニ生レ16歳ニシテ柳川直春ノ門ニ学ビ春任ト名乗リ 文化年間ニ春明ト改メル 語ヲ韶 通称ヲ忠蔵ト言フ 文政年間ニ法橋ニ叙任ジ再ニ法眼ノ位ヲ許サレル 号銘八十方翁ヲ好ンデ多用シ十方斉 十方空舎 月窓 三窓 風乎 対鷗 閑人ナレドモ用イルソノ作風ハ人物 風景 動植物ナド多種デ高彫ヲ得意トシ色絵 象嵌ヲ施シテ一風格ヲナス 春明ハ向島及ビ本所柳島ニ住シタガ 生涯ノ多クヲ遊歴ニ送リ 於北越 於伊香保 遊松島ナドト切銘シタ作品ガソノ足跡ヲ今ニトドメル

 春明ノ旅ハ贅沢三昧ヲ盡シタト伝エラレナガラ ソノ死後ハ一抹ノ哀愁ヲ誘ウ 過去帳ニヨレバ旅先越後新潟デ安政四年 西暦1857年12月26日71歳デ病死 火葬ニシテ遺骨ヲ運ビ翌5年10月26日龍眼寺ノ惣墓葬ル 布施モ無ク穴銭マデ寺ガ立替タトアリ 以来秋メグリテ萩ノ花咲ク萩寺ニ春明霊ヲ慰メタ有志ノ例ヲ聞カズ

 春明没120年忌ニアタリ 本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ 作品ヲ敬慕スル有志集イテ春明ノ積年ノ借銭ヲ代弁セントシテ ココニ春明法眼之碑ヲ建テ 永久ニ霊ヲ慰メントスルモノ也

  昭和53年(1978)10月26日 小窪健一 謹撰

  建碑発起人

 小窪健一 荒井八郎 飯田一雄 長田義正 立浪日郎 朝倉万幸  池田末松 井門美昭 河端照孝 笹野大行 佐藤次喜 斉藤光興

 進藤徹男 進藤久雄 高橋歳夫 福士繁雄 福田豊 益本千一郎  若山泡沫 渡辺健一 全国美術刀剣青年会 鷲見憲司 杉江雄治

 

本堂の前には不動明王の不動堂があります。添え護摩木が販売されてます。

★添え護摩木

御護摩とは、他に類を見ない密教独自の尊い秘法であります。高野山の神木を護摩木として、智慧の火で五欲・四魔・煩悩を燃やし、息災・増益・敬愛・調伏を祈願し悪縁消滅・良縁招福を図る秘法を護摩供養」と申します。

一・息災護摩…災難や厄を祓い日々の生活を平穏無事に過ごすことを目的とした護摩法(家内安全・厄払い・方災除け・当病平癒・無病長寿など)

二・増益護摩…利益・繁栄・発展を得ることを目的とした護摩法(商売繁盛・事業繁栄・金銀如意など)

三・敬愛護摩…人気・信用・和合・調和を得ることを目的とした護摩法(家庭円満・交際円満・夫婦和合など)

四・調伏護摩…悪縁・因縁・障り・五欲の消滅・四魔封じを目的とした護摩法(悪縁除去・霊障消滅・悪人退治など)

 以上の四通りの護摩供養の際に添えるのが「添え護摩木」であります。添え護摩木に願い事を書いて祈願すれば、一切の如意成就が図られると古来より伝えられております。

ということのようです。

本堂です。

★ランドマーク龍眼寺本堂:應永2年(1396)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した、当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。

 御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という、八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。

 一、正見  正しい見解   二、正思  正しい思い  三、正語   正しいことぼ  四、正業   正しい行為

 五、正命  正しい生活   六、正精進 正しい努力・勤め  七、正念   正しい信念・気づかい  八、正定   正しい精神統一 

螺舎一堂句碑
月や秋 あきや夜にして 十五日     螺舎一堂

百寿句碑

「春盛る梅のうしろに□の花」

横十間川沿いのところに水辺と小道が作られています。 

供養碑(句碑)
ゆきし子は 永劫老いず 楠若葉    一亭
 昭和48年(1973)6月4日   大沢欽治 建立

池月一陽子 句碑
遍照や 萩三百の 刈株も     一陽子

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵」ではこんなふうに色が付けられました。今はそれほどの広い敷地ではなくなったので当時の様子を思い浮かべにくくなっています。水辺は江戸名所図会の昔を偲んで作られているようです。

夢佛庵くに□句碑

 夏痩を 驚く秋の 寝覚哉    夢佛庵くに□  

江東区指定有形文化財(彫刻)

 

 

六十六部廻国供養塔宝永8年在銘?

 

 冬嶺・市町句碑
□を□や色越□□錦や萩見□      冬嶺
露の世に□□□や萩の上       市町

  法華経五千部供養塔 享保18年在銘

白い萩の花です。

 龍眼寺の柳

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萩のトンネル(向島百花園)

2017年09月22日 23時23分38秒 | 季節の花

萩寺から向島百花園に向かいました。百花園は萩のトンネルが有名です。

昨年もちょうど同じころに散策しています。今回いくつか新しいことに気が付きました。

萩のトンネルの入り口に咲いている花

よく見ると名札に「とうごうぎく」と書いてあります。ルドベキアの一種ではないかと家に帰って調べたら、いろいろと書いてありました。

★ランドマーク東郷菊:英が東郷元帥に贈る

この花が、日本にやって来たのは明治四十四年(1911)二月。「英国のエドワド七世の戴(たい)冠式に出席された小松宮彰仁親王に同行した東郷平八郎元帥が、ロンドンのキュー植物園から種をプレゼントされ、日本に持ち帰った。付き合いのあった当時の向島百花園主、五代目佐原鞠塢(きくう)さんに寄贈、わが国に根をおろした。

 ルドゥベキア・フルギダを学名とするこの花に、鞠塢さんは「東郷菊」と命名、由来を書いた立て札とともに、遠来の客として大事にもてなしていた。昭和十四年(1939)、東京市の公園となっても萩のトンネル近くで毎年花を咲かせ、かれんな姿が秋を彩っていた。

敗戦で一転不遇に

それが、戦後は運命が一変する。たくましい草花たちは、廃虚となった焼け跡からも新しい芽を吹き出し、人々を感動させた。地元の入たちの熱意が実り、二十四年(1949)には同園は都の公園復活第一号として復興、草花にも木礼が立てられた。しかし、東郷菊に復権の日はやって来なかった。もらった名前が災いした。

四年前(1980年)に名札復活

 四年前、高さ六十㌢ほどの茎をまとめて十本伸ばした所を見つけ出された。三十五年ぶりに名札も復活、「来歴のある花だけに、大事に育てたい」という園の職員らの手で、丹精を受けた。

異国の土に根をおろし、数奇な運命をたどったこの菊から、七十数年の風雪をうかがい知ることはできない。やっと最初に植えられた萩のトンネルの近くに安住の地を与えられ、何事も無かったように、この秋もそっと種を落とすだけだ。

<昭和59年(1984)11月7日読売新聞「ショット 四季」より(抜粋)>http://www2u.biglobe.ne.jp/~bokutei/yomoyamabanasi/tougougiku.htm

この方のブログで見させていただきました。

これは昨年の写真です。

こちらは今年ものですが、萩はトンネルの中より外の方が元気に咲いています入り口の左側にはザクロが実っていました。入り口の東郷菊のところには背の高いシオンが咲いています。昨年は気づきませんでした。

山上憶良の碑

山上憶良の「秋の七草」の碑

秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(くさ)の花

萩の花 尾花葛花(くずばな) なでしこの花 女郎花(をみなへし) また藤袴 朝貌(あさがほ)の花

ということで園内を見渡すと

萩の花と

女郎花と尾花(すすき)はすぐに見つかりますが撫子と葛花は見つかりませんでした。女郎花のとなりは藤袴でしょうか。 

葛の花は荒川の河川敷きで見つけました。

この黄色い花はノカンゾウというもので、食用になるようです。

良い香りを漂わせている白い花はジンジャーだそうです。ジンジャーは日本語に訳すと生姜ですが食用の生姜とは違うようです。

だんぎくと書かれています。手前にさいている紫の花はカリガネソウで、シソ 科に分類される多年草の1種。ホカケソウ(帆掛草)とも呼ばれるそうです。

池と子の錦絵は関係あるのでしょうか。広重2、東都三十六景

向島花屋敷七草です。

上の若宮村のところに新花屋敷と書かれているところが今の向島百花園です隅田川沿いに出ると白髭神社があります。

吾亦紅最近覚えた歌に吾亦紅というのがありますがどんな花かと思ってました。この花のようです。

ハナノトラノオ

酔芙蓉の木。

モミジアオイ

これはピンクにならない白いフヨウでしょうか。

いつまでも咲き続ける百日紅

蓮の鉢植えがありました。

★ランドマーク向島百花園:百花園を造ったのは佐原鞠鵜で、文化元年(1804)のことでした。鞠鵜は宝暦12年(1742)仙台に生まれました。(一説に明和3年生まれ)。天明年間(1781-1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大名に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留町)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・蜀山人(太田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。

その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。

 百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。

こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。

 鞠鵜は天保2年(1831)8月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。

この庶民の庭に、文政12年(1829)3月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。

この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。

今回初めて気が付きました。多賀神社です。

百花園の由来が多賀屋敷跡ということで祀ってあるのでしょうか。七福神の福禄寿尊です。

右手前の花はミズヒキです。これも初めて気が付きました。

白い彼岸花

ひょうたんがぶら下がっています。

★ランドマーク隅田川七福神:文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠鵜が、福禄寿尊を祀っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもる神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神の始まりである。七福神の七という数は、陽を表す奇数であって、古くからめでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万性安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである(昭和45年11月3日 墨田区)

百花園には文化財があふれています。

今度は一つずつ撮ってみます。

向島百花園所蔵の文化財

  • 福禄寿尊案内碑
  • 松尾芭蕉の句碑(春もやや)
  • 千樹庵益賀の句碑(鳥の名の)
  • 亀田鵬斎「墨沱海荘記」の碑
  • 雲山先生看梅詩の碑
  • 茶筅塚
  • 松尾芭蕉の句碑(こにやくの)
  • 山上憶良の歌碑(秋の野に)
  • 大窪詩仏の碑(詩仏老人碑竹記)
  • 金令舎道彦の句碑(きょうの月)
  • 其角堂氷機の句碑(朧夜や)
  • しほふつか(忍ぶ塚)
  • きやうけんつか(狂言塚)
  • 飯島光峨翁之碑銘
  • 井上和紫の句碑(紫の)
  • 哥沢芝金之碑
  • 矢田惠哉翁之碑
  • 鶴久子の歌碑(空蝉の)
  • 二神の碑
  • 最中堂秋耳の句碑(限なき)
  • 月岡芳年翁之碑
  • 杉谷雪樵の碑(芦雁図)
  • 螺舎秀民の句碑(芦の芽や)
  • 七十二峰十湖の句碑(何事も)
  • 雪中庵梅年の句碑(黄昏や)
  • 北元居士の句碑(水や空)
  • 宝屋月彦の句碑(うつくしき)

 

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鳥と花を求めて旧中川から荒川河川敷

2017年09月20日 23時13分40秒 | 近郊散策

9月20日(水)弁当工場の衛生会議で話をした後、秋めいてきた天候に誘われて、旧中川から荒川の河口まで行ってきました。河川敷きの中を自転車での散策です。北十間川が旧中川と合流するところから河川敷に降ります。今回は江戸川区側の河川敷を下流に下りました。旧中川の逆井の渡し跡あたりにはコザギが数羽いました。昔からこの辺りのコザギは有名で広重の錦絵にも登場します。

歌川広重 名所江戸百景 逆井のわたし

奥に筑波山逆井の渡しの下流でしょうか。

江戸時代の切絵図です。逆井の渡しから千葉街道です。

ランドマーク逆井の渡し跡:中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。

 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。( 江戸川区)東京府南葛飾郡の地図より、上の江戸時代の切絵図から総武鉄道や東武鉄道が出来ています。まだ荒川放水路は作られていません。

旧中川の河川敷きの花壇にコスモスが咲いていました。台風で外部傷つけられたようですがしっかり咲いていました。

荒川に出ました。昔は荒川放水路と言って習いましたが、今はただの荒川というようです。

★ランドマーク荒川放水路:埼玉県と東京都の東部を流れる荒川の水量を調節し、東京の下町を洪水から守るためにつくられた迂回水路。東京都北区にある岩淵水門で、旧本流の隅田川と分かれる。川は足立、葛飾、江戸川などの区を通り、下流で綾瀬川、中川と並行して東京湾に注いでいる。なお、国土交通省河川局では、荒川放水路を荒川、岩淵水門から南流する旧荒川を隅田川とよぶ。1910年(明治43)の大洪水後に、内務省によって計画され、1911年着手、1930年(昭和5)完成。延長24キロメートル、幅450580メートル。記録された最高水位は、1947年(昭和22)のカスリーン台風のときで、9メートルの堤防すれすれまで達したが氾濫(はんらん)は免れた。以後もこの放水路が功を奏して東京下町の水害を防いでいる。

昔は荒川放水路と呼びましたが今は、隅田川と荒川と分けて呼ぶようになり、放水路はただの荒川で良いようです。

河川敷はどこまでも平らな道が続いているという感じです。

逆井橋のように、昔渡しだったところに橋が架かりますが、ここでは橋の跡が船着き場になっています。下流に今の葛西橋が見えます。さらに下流から葛西橋を見ています。

さらに下流のところに船着き場(新砂リバーステーション)がありました。

秋の七草に葛の花が載っていますが、ここで葛の花をみつけました。

上流で見つけた時は一輪でも喜んで撮りました。一輪でも葉をかき分けるようにして写しました。

ところが船着き場あたりにはいっぱい咲いていました。

秋の七草といえばススキもありました。

去年も同じころきましたが、キバナコスモスが印象的でしたが今年もいっぱい咲いていました。だいぶ台風には痛めつけられたようです。

帰りがけに大島・小松川公園に寄ってみました。いろいろありましたが、葉鶏頭です。

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青山善光寺(南命山善光寺=港区北青山)江戸名所図会めぐり

2017年09月17日 21時58分49秒 | 江戸名所図会めぐり

前にも仕事の途中で散策したことがりましたが、神宮前にある会場で開かれる勉強会に行く途中、江戸名所図会めぐりとして再度訪れてみました。江戸切絵図より

これまでにオレンジのところは散策しました、今回は赤の善光寺です。

表参道(左手下の十字路)から向かったので参道の脇に秋葉神社がありました。

★ランドマーク秋葉神社:1824年紀伊国屋文左衛門が深川に隠栖の後、歓請したという秋葉神社が表参道入り口に移転してきたものです。境内掲示より:当神社は金王八幡宮の域外末社と称せられた。文政十年(一八二七)六月の創立といわれ、昔は青山善光寺境内で鎮守本社として奉祭したが、明治維新後、神仏判然の別により同寺院より分割された。祭神は稲荷大神・秋葉大神・御嶽大神(木曽の御嶽)三神を奉斎するがゆえに三社さまとも、また秋葉神社とも俗称する。青山の鎮守としてもっぱら火防神として尊崇されている。とされています.

 

こちらが信州善光寺別院、南命山善光寺です。

山門です。

山門にある風神

雷神です

こちらが本堂です。

★ランドマーク青山善光寺:善光寺の建立は、慶長6年、信州善光寺大本願上人の宿院にして、浄土宗の尼寺でした。

 善光寺第109世が、家康公に請願し江戸谷中に7500坪の地を寄付されたので、初めて迦藍の建立が実現しました。しかし、元禄16年11月29日に小石川水戸邸から発した大火により、消失しましたが寛永2年に心誉知善上人(享保12年7月21日没)が現在の地に、間口75間、奥行100間の地を授かり、新たに堂宇を建営してその年の12月に完成しました。

そして、文永2年12月5日、また火災に遭い再建はしたものの大正4年9月に再建し、同9年5月に落成を告げるまで元来の姿でした。この時再建したものが現在の迦藍です。本道前の広場は江戸時代から、かなり大きな建物であったことが伺い知ることが出来るでしょう。(青山表通商店会のPHより)江戸名所図会より、前の通りは現在の青山通りです。三社宮とか書かれているあたりが秋葉神社でしょうか

左手に手水舎、奥に酔芙蓉がピンクに染まっています。

無縁塔の中にある庚申塔です。

続いて

宝篋印塔

高野長英の碑です。

高野長英先生(1804年―1850年)

先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である 

  その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた 最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治参壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた

よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する

 昭和三十九年十月

朝詣礼賛碑

地蔵堂

如意輪観音像と石仏

前回2014年3月に訪問したときはネコさんが歓迎してくれました。

酔芙蓉は今年一番きれいに撮れました。

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