目黒に行く機会があったので、大鳥神社と目黒不動を散策しました。仁王門です。
★ランドマーク目黒不動(瀧泉寺):泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば、「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとったとき、神人の夢をみた。その後大師が青年になり、唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、それが少年のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。大師は奇異に感じ、帰朝後さっそく不動尊像を彫刻し、これを目黒の地に安置した」とある。
目黒不動尊縁起によれば「滋覚大師が大同3年(808年)比叡山に向かう途中目黒で宿をとった。その時、不動明王の夢を見たのでその像を彫り、安置した。それが寺の始まりである。」という。
その後大師は天安2年(858年)に堂宇を造営し、自らの手で「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」を棟牘に記した。そこから寺号を「瀧泉寺」と称するようになり、また、貞観2年(860年)に清和天皇より「泰叡」の勅額を賜わり、山号を「泰叡山」と称するようになった。(目黒区HPより)江戸名所図会より
仁王門の手前に比翼塚がありました。
★比翼塚:処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は『後追い心中』として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、2人の来世での幸せを祈り建てられたという。
★伏見稲荷
★目黒不動尊の子連れ和犬像
独鈷の滝
独鈷(とっこ)の滝の左手にあるのが前不動堂。本尊は不動明王立像で、庶民信仰の便を図ったものとも、本堂に祈願するための徳を積む修業の場であったともいわれる。
独鈷(とっこ)とは…煩悩を打ち砕く仏具
垢離堂(瀧泉寺)
★独鈷の滝:このお滝は今を去る1200年程前、泰叡山瀧泉寺をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(とっこ)を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を「独鈷の滝(とっこのたき)」と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
今日都内では大変珍しい名所である。
泰叡山瀧泉寺は大同3年(808年)天台座主第三祖慈覚大師円仁(えんにん)の開基で、大師自ら尊像を彫刻して安置したのに創まる。天安2年(858年)堂于を造営するに際して、大師が所持の独鈷を投じて、建設の敷地を卜したところ滝泉忽ち湧き出したので「独鈷の滝(とっこのたき)」と称してより、今なお千百有余年絶えず湧出している。大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と付記して瀧泉寺と名付け、貞観2年(860年)、清和の御代に「泰叡」の勅額を下腸されるにおよび山号を泰叡山と定める。爾来、関東最古の不動霊場として、幾多の霊験が伝えられている。浄域の風情は春の花、夏の滝しぶき、秋の紅葉、冬の雪と四季折々に、自然の如法の姿が、参詣される善男善女の心に安らぎをもたらしている。
< 目黒不動尊ご詠歌 > 清らけき 目黒の杜の 独鈷滝 さいやく難を 除ける不動尊
ここに、目黒のお不動さまと諸願成就の縁を結び大願が円成するよう身代わりとなって、水を浴びて下さる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で、大慈大悲の不動明王に参詣できるようになったのである。 平成8年(1996年)5月吉日 泰叡山瀧泉寺
★鷹居の松跡(たかすえのまつあと):徳川3代将軍家光が寛永の頃(1630年頃)不動尊の近くで狩猟中に、かわいがっていた鷹が行方不明になりました。そのとき不動堂別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまちここにあった大きな松の枝に飛びもどってきたと伝えられています。今はその松の跡だけが残り標石が立っています。
家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。
★神愛大菩薩
★大本堂
★八大童子の山
★鐘楼堂
★災厄除 護衛不動尊
★延命地蔵尊
★意志不動
★不動明王
★微笑観音菩薩
★愛染明王
大本堂の裏手に
★銅造大日如来坐像(目黒区指定文化財昭和59年3月31日指定):蓮華座に結枷趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躰、両腕、膝等十数ヶ所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躰にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躰も衣文表現もよく整っています。
現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の目黒不動堂の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴史が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。
帰りは女坂で降りてきました。途中に力石があります。その下に
『 銅造 役の行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう) 』 目黒区指定有形文化財(彫刻) 昭和59年(1984)3月31日指定
別名『神変大菩薩』とも云い、修験道の開祖、足・腰を強靭にしてくれる。この像はやや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもまことに巧みで江戸時代の銅造彫刻としては優れた遺品の一つである。また、像の腹部、胸部、腕部等に寛政8年(1796)神田に住んでいた鋳工大田駿河守藤原正義作の刻銘があることも貴重である。 昭和59年(1984)8月 東京都目黒区教育委員会
以上は指定当時の説明書きのようです。
女坂=水音聞きてまた祈る
坂を下りたところに
『 地蔵菩薩 』 大悲をもって凡ゆる人間を教化、救済して下さる仏さま 地蔵堂にあり
『 閻魔大王 』 地獄の仏として人間生前の罪を判する王 地蔵堂にあり
『 三途の河婆 』 人間の死後、三途の河を亙る時、助勢をしてくれる老婆
水子地蔵尊
阿弥陀堂
観音堂
『 観世音菩薩 』 江戸三十三観音の一つで慈悲の仏さま、聖観音、千手観音、十一面観音、観音堂にあり
★豊川稲荷
★三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)
池畔に三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)が祀られ、ここが山の手・七福神の恵比寿天となっています。
弁財天は七福神中の紅一点、美しい音楽の女神である。
ということでまだまだ見どころがあるようですが、池の所がバス停でちょうど渋谷行のバスが来たので乗り込みました。
天台宗
泰叡山 瀧泉寺
目黒不動尊
天台宗で泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、大同3年(808)に慈覚大師(じかくだいし)が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍(どうとうからん)を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。 境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。
壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂(まえふどうどう)」(都指定文化財)、「勢至堂(せいしどう)」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。
境内には『銅造役の行者倚像(どうぞうえんのぎょうしゃいぞう) 』『銅造大日如来坐像(どうぞうだいにちにょらいざぞう)(区指定文化財)』、『仁王門』、『大本堂』、『垢離堂』、『延命地蔵尊』、『八大童子の山』、『勢至堂』、『前不動堂』、『観音堂』、『地蔵堂』、『降魔の三鈷剣』、『独鈷の滝』、『水かけ不動尊』、『養老孝子像』、『鷹居の松跡』、『腰立不動』、『本居長世碑』、『意思不動尊』、『力石』、『男坂』、『阿弥陀堂』、『北一輝先生顕彰碑』、『三福神〔山手七福神恵比寿天〕』、『豊川稲荷』、『地主神』、『三界万霊塔(無縁塔)』、『野村宗十郎銅像』があります。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽(あおきこんよう)の墓(国の史跡)があります。
昭和61年(1986)3月 目黒区教育委員会