リハビリ病院は隅田川沿いにあります。周辺にある隅田川神社を散策してみました。この辺は水神の森と言われていたようです。
★ランドマーク水神の森跡:荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。 平成十九年三月墨田区教育委員会
墨田川神社の鳥居です。拝殿の後ろは高速道路になっていて柱が見えます。前には狛犬なら狛亀(石亀)が一対がありました。さらにお百度参りの碑があります。
奥には亀神が鎮座しています。
昔からこの神社は、河川交通の要衝にあり、墨田川の総鎮守として、船頭や荷船仲間に厚く信仰されていたため、河川交通の象徴として「亀」が神使とされ、「水」が神紋とされたと思われます。
移転再建された社殿からは、首都高速道路のため、川面は全く見えません。水神宮の碑です。
錨が飾ってありました。
この辺りは隅田宿跡だったようです。
★ランドマーク隅田宿跡:近年の研究では、隅田川河岸には中世鎌倉街道が通過し、街道沿いに「隅田宿」と呼ばれる、江戸時代以後には消滅した「幻の町」が存在し、梅若伝説はその町を舞台に成立したことが明らかにされつつあります。こうした新たな歴史研究の成果は、梅若伝説が、一般にイメージされがちな物寂しい川原を舞台に生まれたものではなく、商人たちの往来で賑わう中世の都市的な環境のもとで育まれた伝説であることを示しています。
近世に入ると梅若伝説を主題とした「隅田川物」と呼ばれる一連の歌舞伎・浄瑠璃の芸能作品が普及しました。その影響は、合巻・黄表紙・読本や浮世絵など近世の文学・芸術の諸分野に及び、それらの作品の魅力が隅田川流域に文人墨客を誘致する大きな要因になったのです。(すみだ郷土文化資料館資料より)
名所江戸百景「隅田川水神の森真崎」
広重の絵で
手前に向島の土手の桜を大きく描き、水神の森、隅田川神社、対岸の真崎、そして遠景は筑波山だそうです。
広重:名所江戸百景
真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
江戸切絵図より水神、梅若塚、木母寺と古スミ田川(内川)を挟んで向かい側が関屋の里になります。