駿河台側の御茶ノ水にある病院から神田上水懸樋跡を散策する途中で三崎稲荷神社に寄ってみました。
病院の前の通りを皀角坂〔さいかちざか〕を下ってこの表示のある水道橋駅の東口のところに着きました。
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白山通りを渡るには歩道橋を昇らないと渡れませんでした。歩道橋の上から医科歯科大学病院に隣接して三崎稲荷神社が見えました。
昔の古地図によると神田川の河岸に隣接してあったようですが、今は中央線と駅前の通りを隔てたところにありました。表に回って撮りました。
江戸名所図会に描かれています。
★ランドマーク三崎稲荷神社:創建は建久(12世紀末)以前とされています。氏神社の社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため、三崎神社と通称されています。創建当初は和田倉付近にあり、その後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905)現在の地に移りました。
江戸時代、参勤交代で諸大名が登城する中、当社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称されていたとされる。また、道中の安全を期したことから、「旅行安全」の神として崇敬を集めたとされる。
社殿、6月30日の夏越大祓いのために茅の輪が飾ってありました。この言葉を唱えながら三回廻るそうです。
こちらは一茶の句です。
狛犬
手水舎ですがこの先に江戸名所図会の水盤がありました。わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」~大人の塗り絵より、水盤は図会の鳥居の右側にあったもののようです。
★江戸名所図会について:江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸後期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。
拝殿
社務所です。
鳥居
これも一茶の句だそうです。形代(かたしろ)は夏祓いに用いる紙製の人形。これで身体を撫で、罪やけがれをこれに移して、身代りに川へ流した。ということのようでで、身代わりの人形が流れていくのをみて子どもがバイバイしている様子をうたったもののようです。
同じような意味で昔はいろいろなものを川に流しました。古くなったひな人形、七夕の笹飾りなどなどです。
最近は遠出の機会がなくなったので、江戸時代の観光地を感じながら江戸名所図会めぐりをしています。