8月5日のものに、8月9日に太宰治の夾竹桃を加えました。
船橋にあるうたごえのお店ゴリに行くので、途中で近くを散策しました。以前から行きたかった道祖神社に向かいました。ゴリのお店にはいつもフェイスビルを通って行くのですが、久しぶりに駅前の通り行き、斜めの小道に入りました。少し歩くと見えてきました。
階段に手すりが無いので苦労しますが登って行きました。
拝殿です。
手水舎は家庭の流しのように使われていました。三峰神社の鳥居のところで境内を清掃している方々の宴会だったようです。
三峰神社の拝殿
★ランドマーク道祖神社(船橋):道祖神社道祖神は道六神(どうろくじん)とも呼ばれ、元々は村境や辻に祭られ、町や村に悪霊や悪疫が入るのを防ぐ神だった。道祖神は非常に古くから信仰された神様なので、様々な祈願に応える機能を持つようになった。元々の厄除け的なものから、足・耳の病を治すはたらき、さらには子授けや夫婦和合の願いを叶える神様としても信仰されるようになった。境内には仏教の中の“愛の仏”である愛染明王の石仏も移されている。
脇に石仏がありました。文化8年(1811年)と記銘されています。これが愛染明王でしょうか。
その脇に小さなお地蔵さんがありました。
ここを後にさらに小道を進みます。予定をしていませんでしたが、船橋御殿跡と東照宮という案内がありました。
奥まったところの突き当りにあるようです。鳥居の先に史跡の案内がありました。
★ランドマーク船橋御殿跡・東照宮:船橋御殿と東照宮慶長19年(1614年)、この一帯に船橋御殿(将軍家の宿泊休憩所)が建てられ、元和元年(1615年)徳川家康・秀忠父子が東金に鷹狩りに往復する途中に宿泊したところ。以後、東金での鷹狩りは行われず、船橋御殿もなくなったと想定される。その後、船橋大神宮神職に下げ渡され、御殿中心部に家康を祀る東照宮を建てた。現在の建物は安政4年(1857年)に再建され、昭和2年に修繕されたものである。安政4年(1857年)に再建された社殿でしょうか。
隣に御殿稲荷がありました。東照宮の鳥居の前に三猿です。
近くに御堂が見えました。裏口から入ったので表に回ってみました。厳島神社でした。
★ランドマーク厳島神社船橋:厳島神社厳島(いつくしま)神社というと、瀬戸内海に浮かぶ安芸の宮島が有名である。当社もその厳島神社を勧請したもので、田心姫命(たごころひめのみこと)・市杵島(いちきしま)姫命・多気津(たぎつ)姫命を祭っている。元来この三女神は海の神だったが、市杵島姫命は「市」の守り神ともなり、また、弁才天と結びついて水神、学問・技芸の神様としても信仰された。地元では“弁天様”と呼ばれ親しまれた 。
いったん表の通りに出たので戻ろうと思いましたが、ちょっと先に赤い鳥居が見えました。
★ランドマーク御蔵稲荷:御嶽稲荷当時飢餓に備えて穀物を蓄えておく郷蔵(ごうぐら)を建てた。そのお陰で以後、当地では飢餓を免れた。村人はその恩に報いるために、神社を祀るようになったと言われ、これを御蔵稲荷と呼ぶようになった。
★御蔵稲荷の由来と謝恩の碑:この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸初期の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建られ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお陰で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し、四季折々の祭を行って来た。慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷御蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ四尺(一、二メートル)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等弐百五十貫余(約九四〇キロ)も入っていた。地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治二十一年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。
昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水家屋敷二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のために役立った。
市民文化ホールの前には太宰治が植えたとされる夾竹桃があります。
★ランドマーク太宰治が植えた夾竹桃:この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年~昭和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番(船橋市宮本町一丁目十二番九号)に借家住まいをしてた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和五十七年十二月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。
太宰治は当時、「めくら草紙」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いておりますが、戦後の作品「十五年間」では、次のようにこの夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き遺しました。
私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。
こんな文書を見つけました。太宰治 愛着深き船橋時代 №8 太宰が愛した夾竹桃よりhttps://tushima.exblog.jp/21901804/
太宰は、船橋に転居してきた年の8月に近所から夾竹桃を貰ったようだ。『めくら草紙』の中に書かれていた。
夾竹桃を欲しがった理由に『隣りの庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。』と書き、さらに、『つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のより口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったと覚えている。
「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。蓮。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです。』と書いている。
船橋には太宰治の痕跡がたくさんあるようですので、またあらためて散策します。