茅場町にある施設を訪問しました。20日に行ったノロウイルスのリスコミのあった場所の隣の施設でした。周辺を散策してみました。
この神社は、千代田区永田町の旧官幣大社・日枝神社の摂社・御旅所だそうです。天正年間(1573~92)より、日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを起源とする。寛永年間、現社地が御旅所に定められたとのことです。
大正4年(1945)、本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされ、関東大震災の後、昭和3年(1928)に社殿が造営された際、境内末社の北野神社・稲荷神社・浅間神社の祭神を本殿に合祀した。ということだそうです。
石柱には「官幣大社・日枝神社 摂社日枝神社」と書いてありますが、正式には「日枝神社日本橋摂社」というらしいです。「摂社」これも意味が分かりません。辞書では本社と末社の間に位し、本社の祭神にかかわりをもつ神などを祭った神社。とこれもよくわかりません。
ウイキペディアでは:現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。と書いてあります。
神社の裏には
智泉院がありました。こちらは、徳川家康が、 江戸城鎮守の山王日枝神社の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置した際に、 山王権現の本地佛としての薬師堂を寛永12年に建立、智泉院がその別当寺となり、山号を鎧島山から醫王山へ改めたといいます。 江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、 茅場町のお薬師様は特に人々の参詣も多く、他所の仏像開帳もしばしば行われていたということらしいです。
地蔵尊です。
青銅製で像高は235㎝。作者は日本橋本小田原町で生まれた彫刻家、戸張狐雁。関東大震災でなくなった人々の供養のために、日本橋魚河岸の“地蔵講”が製作発願し、昭和2年9月1日除幕式が行われた。 -中央区民文化財-
興味がなかったので、ちゃんと撮れませんでしたが、半分写っている天水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されているものらしいです。