ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

葛飾八幡宮(江戸名所図会めぐり)

2016年12月21日 23時01分18秒 | 江戸名所図会めぐり

12月でも暖かい日だったので、前から行きたいと思っていた江戸名所図会に載っている市川市にある葛飾八幡宮(八幡 八幡宮)を散策してしてきました。

図会の手前の通りは千葉街道になっていて、街道と八幡宮の間を京成電車が走っています。右下には「八幡不知森」として「八幡の藪知らず」が描かれています。

左手に京成八幡駅があります。北口からあるいて着きました。鳥居を入って先に見えるのは髄神門です。

★ランドマーク髄神門:髄神門は明治維新以前は、天台宗上野寛永寺の末寺、八幡山法漸寺(廃寺)の仁王門でしたが、神仏分離によって当宮の随神門となりました。両裾に位置する随神(右大臣・左大臣)のある場所には仁王像がありましたが、現在は行徳の徳願寺に遷されています。 

 和洋、木造単層切妻の構造をもち、屋根はかつて茅葺きでしたが、現在は銅葺き。三間一戸、丹塗りされており、桁行10.36メートル、梁間4.45メートルです。(神社のHPより)平成14年8月、塗り替え修復工事をしたようでかがやいていました。

 両裾に位置する随神(右大臣・左大臣)です。

境内は広くて、髄神門を抜けてももっと先に山門が見えます。

山門の右手に鐘楼が見えます。境内の外になっていますが手前の碑は梨の栽培を広めた川上翁遺徳碑です。

江戸名所図会 梨園 として描かれています。

以前の案内板は市川市教育委員会の掲示では

★ランドマーク川上翁遺徳碑:「川上翁は名を善六といい、寛保二年(1742)一月、八幡村大芝原(現八幡二丁目)に生まれました。幼少の頃から祖父を助け、父に仕えて農業に励みましたが、祖父の代からの借財は、今まで通りの生活ではとても返済できるものではありません。そこで彼が思いたったのは、江戸に近い当地での梨栽培でした。
善六が梨栽培を始めたのは明和七年(1770)のことで、その後、美濃国(岐阜県)を訪れたおり、梨の良種を得て帰り、八幡宮の別当寺であった法漸寺の境内を借りて梨園を開きました。それが数年後見事な果実をつけ、江戸の市場で、高値で取り引きされるようになると、善六は村人にその栽培を奨励し、たちまち八幡一体には梨園が広がりました。これが「市川梨」の起りです。
祖父や父によく仕え、新しい産業によって家を興した善六の努力と親孝行が、広く世間に知られると、代官から褒美が下され、苗字と帯刀が許されました。また、善六は少年の頃から学問を好んで読書に耽り、後には漢学を志し、孟慶と号して村人に読み書きを教えました。
善六は梨栽培で財をなしても決して驕らず、温恭実直に世を送りましたが、文政十二年(1829)八月、八十七歳で歿しました。村人から「梨祖」と仰がれ、大正四年(1915)その遺徳を後世に伝えんと、市川梨発祥の地に建てられたのが、この遺徳碑です。」と書かれていました。

川上翁の碑の隣には八幡音頭と市川小唄の碑がありました。

山門の所に由緒書きがありました。

★ランドマーク葛飾八幡宮:寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)治承4年(1180)源頼朝は阿波国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190-1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたといわれています。また、文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行いました。更に天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。 明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物です。また、山門の二王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随身門とよばれるようになりました。この随身門は市指定文化財です。 本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政5年(1793)に発掘された元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます。当宮の祭礼は9月15日から6日間にわたって行われ、俗に「八幡のぼろ市」とよばれる近郷に名高い農具市がたち、一時は、関東一とまでいわれた。二月の初卯祭は湯立神事、湯立神楽、宮司舞などをもって祭事が進められる特殊な神事です。拝殿

神楽殿

1840年ころに描かれた江戸名所図会でも大木だったのでその歴史が伺えます。

イチョウの後ろに

道祖神と庚申塔

 

参道に出ると脇にこんな碑がありました。

岡晴夫の碑でした。

京成線の踏切を挟んでこんな碑が建っていました。

★ランドマーク改耕碑:市川市域北部の台地と国道14号線との間は、かつての真間の入江跡であり、水はけの悪い湿地の土地柄でした。日露戦争後に食糧の増産が叫ばれると、この地域でも土地改良の必要性が唱えられ、明治44(1911)年に当時の八幡町を中心に近隣10ヶ村による耕地整理組合が結成され、翌明治45年から放水路(江戸川放水路)の新設・排水路の掘削工事・真間溜の改良工事・真間川への揚水機の設置・畦畔区画の変更工事・河川改修による樋門改築工事が着手されました。
 
  大正8(1919)年8月工事は完成し、真間川流域の排水の促進・須和田・菅野の低地帯の開墾・短冊形への農地の整備がなされ、農地の生産性が向上しました。しかし時代の推移によりこのように作り出された田畑もほとんどが宅地化されてしまいました。
 
  改耕碑をバックにした写真は、大正9(1920)年10月に葛飾八幡宮で竣工式が行われた時のものだそうです。

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年越し前の亀戸天神

2016年12月18日 21時24分59秒 | 社寺仏閣

小春日和に誘われて自宅周辺を散策しました。いつも初詣にいく亀戸天神はそろそろ初詣の準備をしていました。冬空に亀戸天神の拝殿と東京スカイツリーです。

太鼓橋とスカイツリーもビューポイントです。

心字池にかかる最初の太鼓橋は男橋というらしいです。

★ランドマーク亀戸天神正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。

当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。

古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。ウイキペディアより

葛飾北斎作『諸国名橋奇覧』より、「かめゐど天神たいこばし」です。

紅梅澱は1662年(寛文2年)に太宰府天満宮の神木である飛梅の実生を勧請したもの。現在の社は、1988年(昭和63年)に再建されたものです。

心字池の東側にあるのは花園社です。花園社は、道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀る。寛文年間に筑前花園より勧請を受けたものである。安産、子宝、立身出世の守護神として信仰されています。

 鷽替え(うそかえ)とは、“うそ”は幸運を招く鳥とされ、毎年新しい”うそ”に替えると、これまでの悪い事が“うそ”になり一年の吉兆を招いて開運・出世・幸運を得ることができるという。江戸時代には、多くの人が集まり木彫りの”うそ”を交換する習わしが生じ、それが現代に引き継がれている。

石碑が多く立っていますがこれは新しいもので文房至宝と書かれています。

文房至宝碑
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明示の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた今や文房具はOA機器にいたる迠その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め平成2年(1990)11月12日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り東宰府亀戸天満宮の境内に文房至宝の碑を建立する
 平成2年(1990)11月吉日 文具資料館

各地の天神さんに立てているようです。12月中旬ですが梅のつぼみも少し膨らみかけていました。

黒猫さんは止まってもらえませんでした。

境内には江東区文化財になっている石碑が多く立っています。八百万神碑 男谷静斎書(江東区登録文化財)

菅公一千年祭記念碑(江東区登録文化財)

歌川豊国翁之碑(江東区登録文化財)

菅原白竜画師献技碑(江東区登録文化財)

明楽斎修筆碑 明治29年在銘(江東区登録文化財)

累卵塔碑(江東区登録文化財)累卵とは、卵を積み重ねることで、くずれやすく、きわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に、明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人名の危うき事を示そうとして献納しました。

菅廟種梅碑 明治35年在銘(江東区登録文化財)

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待乳(真土)山聖天(江戸名所図会めぐり)

2016年12月13日 09時55分35秒 | 江戸名所図会めぐり

約半世紀前に台東区にある事業所に勤めていたこともあり、待乳山は何と読むのかななどと思いながら通過していました。最近でもリハビリサイクリングとして、自宅から3kmほどで適当な距離にあるので季節ごと程度にはこの辺りに来ています。今回は江戸名所図会めぐりとして慶養寺、今戸橋、山谷堀の続きで、

ついでに待乳山聖天に来てしまいました。

江戸名所図会では手前の右手に今戸橋があるのでしょうか。

前回までは正面からのみ見ていたのですが、今戸橋から来てみると下から見上げる状態だったので、つい散策してしまいました。

こちらが山谷掘り側からの入り口です。駐車場になっています。階段がありますが、一般客は入れないようになっていました。周辺をちょっと覗いてみました。階段の左手です。階段があって右手にはちょっと面白い石塔があるので近づいてみました。浪曲相輪塔と書いてあります。

★ランドマーク浪曲相輪塔: 昭和18年浪曲協会が建てたもので浪曲は明治の末に大阪から浪花亭駒吉が関東節として広め、更に桃中軒雲右エ門によって隆盛をもたらし、今日も庶民に広く親しまれている。というものだそうです。

ここからのスカイツリーです。表に回りました。

階段を昇る途中に石像があります。

これはようやく覚えましたが「見ざる言わざる聞かざる」の庚申塔です。さらに階段を昇ると「浴油祈祷の勧め」というのがありました。

 およそ、人間の浴には際限というものがありません。この「むさぼり」「あがく」心が、いろいろの罪や災いを招く原因ともなっています。そこで聖天様は、日常さまざまな願いごとを悉く叶えて下さることで、私達の「むさぼり」の心を取り除こうとされておられるのであります。
 ここの道理をもとに組み立てられたのが聖天様の浴油祈祷で、密教の行法の中でも秘法の一つとして重んじられています。速やかな心願成就を望まれる方は、この浴油祈祷を御依頼になるとをお勧めいたします。
 当山では1年をとおして休むことなく修法いたしております。尚、ご依頼の日から7日間、修法いたした後、御礼が授与されます。

聖天様の案内板です。

★ランドマーク待乳山聖天待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人が苦しみ喘いでいたとき、11面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。

 ここは隅田川に臨み、かっての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人“戸田茂睡”の作、 

あはれとは 夕越えてゆうく 人もみよ まつちの山に 残すことの葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。

 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物が焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。

案内板のところにトーキー渡来の碑があります。

★ランドマークトーキー渡来記: リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。・・・

あちらこちらに大根と巾着が飾られています。 

階段の手すりのところにも描かれています。

この階段を昇った左側に地蔵さんと地蔵堂があります。歓喜地蔵尊、子育てのお地蔵様です。

 

右側には出世観音です。学問、芸能、立身出世、商売繁盛の観音様だそうです。

出世観音像: 昭和11年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1600年頃)の作と鑑定された学業芸道に志すものの尊信を集めている。

金龍山大聖歓喜廟碑と書いてるのでしょうか。

正面に本堂です。

この左手に神楽傳、正月3が日、大根まつり、節分、毎月のご縁日に、駒崎社中による神楽が奏され、 大きめの行事には舞も入るとのことです。

大根の碑がありました。

あまり気にしませんでしたがこの大根は二股大根で、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しているということだそうです。大根よくみるとそんな風に見えます。

心願成就の碑があります。

心願成就とは:心の中で神仏に念じた願いが叶うこと。「心願」は神仏に心から願うこと。「成就」は願ったとおりに願いが叶うことだそうです。

右手には築地塀です。広重の錦絵ですが、

建物の周りを囲っているのがこの塀でしょうか。あまり土塀のようには見えませんが。

土塀(築地=ついじ) 右側石段より延長25間(45m)残っています。江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財ということだそうです。

本堂を左回りに巡ってみます。巾着初めて気が付きましたが半鐘がありました。

こちらはいつも見ている

銅造宝篋印塔です。天明元年(1781)建立の塔で、区の文化財に指定されています。信徒千余人が一石一字集めて陀羅尼稽15巻分納められている。とのことです。

お稲荷さん稲荷尊です。本堂守護、および商売繁盛のお稲荷様です。

この所から山谷堀越しに慶養寺が見えます。裏側にお百度石が1対あります。

こちらは糸塚

糸塚
 この糸塚は元治元年11世紀杵屋六左衛門が父10世杵屋六左衛門の遺志に依り供養のため建立せるものにして

16世六左衛門、3世勘五郎共に長唄三法の名人といわれた人である。

戸田茂睡歌碑:  茂睡は元禄の頃活躍した歌人で歌道の革新を唱えた江戸最古の歌碑と称されてが、戦災にあい昭和30年拓本をもとに再建された。78歳で歿した。ということらしいです。

碑には「紫の一もとをもれしてゆかり深き江戸の名勝をたたへ梨本集を著した近代歌学び魁所なしし元禄の歌人戸田茂睡翁は浅草に住みこの待乳山の風光をめで出御堂の傍○歌碑を建てたりきその石○にそこなはれし寛政9年姪孫櫛分規貞石室をつくり三面を覆ひたりしが昭和20年3月戦災にあひて殆ど煙滅に及びぬここ本龍院住職平田真徳師先住の息横田真精師等発起して再興をはかり今年翁の250年忌に刻石再び新たに成れりかくれ○翁かかりせにして喜びほほゑみてあらむ

とこしへよかれじくせじ霊ごもるまつちの山のやまと言う葉 

  昭和30年4月10日     日本芸術院会員  佐々木信綱 と書かれているようです。

広重

この絵のようになっていようです。

今は坂の下は駐車場で、隅田川越しにスカイツリーが見えます。本殿の左側は大根、こちらは巾着の水瓶です。以前使っていたもののようです。天狗坂から上ってきた所にも手水場がりました。

そろそろお正月の用意でしょうか。

階段を下りて社務所の脇から入って庭園を上から見ます。お地蔵さんがあります。築地塀の裏(表)側になります。

最後にこんな写真を見つけました。明治中期のものだそうです。ウイキペディアより 橋は今戸橋、下を流れているが山谷堀です。

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慶養寺・今戸橋・山谷掘(江戸名所図会めぐり)

2016年12月09日 22時56分00秒 | 江戸名所図会めぐり

小春日和に誘われて、リハビリサイクリングに出かけました。目的は江戸名所図会の慶養寺・今戸橋・山谷堀です。

いつものように地図も持たずに自転車で東京スカイツリーの脇を通り源森橋、隅田公園、牛島神社を抜けて桜橋から今戸橋の所に出ました。

最初の写真は源森橋から見た東京スカイツリーです。雲の形もなかかなでスカイツリーに向かっているように見えました。下を通るのは東武の特急列車です。

桜橋を渡って台東体育館の脇を抜けると寺が見えてきました。

近づいてみると慶養禅寺と書かれていました。仁王様が山門の両側に立っています。

★ランドマーク慶養寺:慶養寺略史によると、慶養寺は元和元年(1615年)に浅草鳥越の地に創建され、その後、浅草蔵前、本所押上への移転を経て、貞享二年(1685年)に現在地の今戸に移ったと伝えられています。かつて境内には、大榎、大欅、大銀杏等が群立し、慶養寺はうっそうたる森の中に堂々たる寺姿を誇っていましたが、大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で諸堂を消失。昭和十八年(1943年)にようやく総欅造の本堂の再建を果たすものの、間もない昭和二十年三月に戦災により再び諸堂を一堂も余さず消失し、大銀杏ただ一本を残して、ほとんどが灰になってしまいました。現本堂が竣工するのは、それから二十年後の昭和四十年(1965年)九月のことです。

こちらの絵が当時の様子を物語っているのでしょうか。

わたしの彩(いろ)の江戸名所図会大人の塗り絵より

山谷堀 俗に堀とばかりもいへり。

待乳(まつち)しづんで、梢のりこむ今戸橋 土手の合傘、片身がはりの夕時雨 君をおもへば、あはぬむかしの細布 右 英(はなぶさ) 一蝶戯作。

中に入らせてもらいました。

本堂へ続く道これは

「当寺ハ浅草西福寺ノ辺ニアリシ時。伊丹右京年16、舟川采女年18両人討果シタル事あり。藻屑物語トイフモノ此事ヲ記ス。当寺ニアリ(御府内寺社備考より)」という藻屑物語の男女を想像させるものなのでしょうか。こちらは厳しい顔をした石像です。ジュウガツサクラが咲いていました。観音像です。

本堂です。

左手に見える建物が鐘楼?

 

本堂の脇の花地蔵です。

本堂の左手奥にはお稲荷さんがありました。

稲荷の手前には庚申塔庚申塔は台東区の有形民俗文化財に登録されています。

石塔も古そうですが。

関東大震災も東京大空襲にも耐えたイチョウの木がありました。

 

寺を出るとすぐに今戸橋です。お寺側から待乳山聖天側から見たものです。

古地図(江戸切絵図)でみると山谷堀を挟んで待乳山聖天となっています。

山谷堀をさかのぼると日本堤に新吉原です。江戸名所図会では手前の日本堤の上に屋台などが並んでいるのが見えます。今も吉原の入り口えもんさかと書いてあるところは曲がっています。手前は日本堤通りになっています。

キャプション   闇の夜は吉原ばかり月夜かな 其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日)。

墨水八首 日本堤 大堤春水満ち/相袂春衣を送る/日暮公子に逢ふ/知らず何れのところより帰るを 南郭

服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日)

 

今戸橋 下流側、道路を挟んだ向うには東京スカイツリーが見えます。

山谷掘り、今は暗渠になっています。上流、吉原に向かう方をみています。

隣、浅草方面から見て橋の手前は待乳山聖天です。

こちらは次に紹介します。

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亀戸中央公園・晩秋の紅葉と山茶花(12月5日)

2016年12月05日 18時51分20秒 | 公園散策

「昭和の栄」と欅の紅葉

亀戸中央公園は11月22日以来ですが、暖かさにつられてリハビリウォーキングを兼ねてゆっくりと散策しました。入り口のところにさざんかの案内がありました。

22日にはまだ咲いていなかった入り口のところにサザンカの笑顔と立寒椿が咲いていました。時計回りに公園を歩いてみました。これは富士の峰です。

ピンクのさざんか乙女は盛りを過ぎていました。遊歩道を外れて木々の下に入ると鳩が大勢で餌を食んでいました。

遅咲き?のイチョウがちょうどよい色に染まっていました。

行く手に赤い紅葉がありました。モミジかと思いましたが、

カエデでもなくアカシデの木でした。さらにあるいて旧中川に面しているところまで行って公園内をみると鮮やかな紅葉が見られました。

総武線のガードをくぐってA地区に出るとすぐサザンカコーナーです。初光です。

A地区を一回りしてC地区に向かいました。

紅葉とイチョウのコラボ、今日一番の紅葉です。

白猫さんがいました。何かに集中しているようでした。

よく見てたら石垣の上にいる雀を狙っていたようですが、15分ほど見ていましたが残念ながら目的を達することができませんでした。

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