来週は手術した御茶ノ水にある病院に行くので、シュミレーションしました。結局御茶ノ水駅の階段を避けるので、水道橋駅まで行きました。御茶ノ水よりに降りてエレベーターで降りて、白山通りを横断します。横断したところでタクシーを拾って病院に行く予定です。
この横断には一本杖で歩いてあと5mのところで点滅して歩道につくと赤信号になりました。ぎりぎりの歩行速度です。渡ったとことに水道橋の由来がかいてありました。
ウイキペデイアには「江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、
この橋名は、本橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)6月30日に、長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたものであり、先代よりやや大ぶりの橋である。」と書かれていました。
少し離れたところに神田上水の説明書きがありました。
神田上水は、徳川家康が江戸開府時飲用水を引くため開削した上水道。日本最古の上水で,天正 18 (1590) 年大久保忠行によって開設された。井の頭池,善福寺,妙正寺池の湧水を水源とする神田川水系の水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め,素掘りで小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し,神田,日本橋方面へ供給していたものです。
『江戸図屏風』に描かれた江戸時代初期の水道橋。橋の下側に描かれているのが懸樋
神田川、水道橋の上から御茶ノ水方面を見ています。
こちらは後楽園、昔は遊園地といいましたがいまは言わないようですね。落下傘降下は昭和49年生まれの娘が小学生の時に入院したので、快気祝いに連れてきた時の乗った記憶があります。もう30年以上も前のことになります。
帰りのエレベーターで水道橋のホームに出たところです。
夜は入院中に、毎週のようにお見舞いに来てくれ、お世話になったテニスのパートナー船木さんたちと浅草の飯田屋にドジョウ鍋を食べに行きました。20年ぶりです.
飯田屋の口上:磨き込まれた藤敷に胡座をかいて、「どぜう鍋」一刻文豪気分です。
明治の創業以来、言い継がれてきた家訓「親父の仕事はタレをとることと、下足番」お客様への心遣いは足元までというこの訓えを今後も肝に命じてまいりたいと存じます。元来、どぜうは安くて栄養価の高い食物として親しまれてきました。伝統の味を大切にするため、今でも天然物のどぜうを厳選しております。素朴な庶民の味、下町の味わいを、どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。…四代目主人。
ゴボウを敷いた上の載っているドジョウにたっぷりネギを載せて、ネギがしんなりしたらいただきます。
うな重もいただいて満足して帰ってきました。明日はリハビリ病院に外来で受診しリハビリをしてきます。