昨日の平井に次いで今日は亀戸にある施設の訪問です。都営地下鉄で西大島で降りて亀戸に向かいました。西大島の駅を出たところでこんなものを見つけました。40年も江東区に住んでいるのに、初めて気が付きました。
ここには五百羅漢寺があり、その境内に寛保元(1741)年に建立された三匝堂(さんそうどう)があったということです。広重の絵もありました。三匝堂とは、3回巡る堂の意味で、内部が3層の螺旋状をしており、同じ通路を通らずに上り下りができる構造を持ち、その形状がサザエのようであることから「さざえ(さざゐ)堂」として知られていた。とのことです。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば観音の霊場巡りができるとされており、その珍しさから江戸の人々の人気を集めたそうです。弘化年間(1844-48)の暴風雨や安政の大地震で荒廃。五百羅漢寺は明治になって目黒へ移転されました。歌川広重「名所江戸百景 五百羅漢さざゐ堂」
こちらは葛飾北斎「富嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう」です。
今あるのは、羅漢禅寺です。明治36年(1903)に羅漢寺跡地に祥安寺(曹洞宗)が信徒総代の手により多摩郡氷川村から移され、昭和11年(1936)に羅漢寺と改称したとのことです。
寺の西側に面している明治通りは亀戸までを羅漢(らかん)通りというらしいです。
目黒の天恩山五百羅漢寺の紹介です。
HPによると「目黒のらかんさん」として親しまれている当寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたものです。五百体以上の群像が完成してからもう三百年の星霜を重ね、現在は東京都重要文化財に指定されています。(現存三百五体) 天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。しかし、明治維新とともに寺は没落し、二度移転し、明治四十一年に目黒のこの地に移ってきました。大正から昭和にかけて非常に衰退し、雨露をやっとしのぐほどの無残な状態になり、羅漢像の将来が心配されていました。
昭和五十四年になって、日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの困難をのりこえて昭和五十六年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。と書かれていました。
「羅漢」の意味もよくわかりませんが
目黒のお寺さんのHPでは「人の心の迷い、悩み、苦しみをひきおこす原因となる心の垢や精神の汚れのことを、仏教では煩悩といいます。修行してこの煩悩を拭い去り、清らかな人格をつくりあげ、人間として本当に価値のある人生を生きぬいてゆくための真実の智慧を完成した聖者を、昔からインドでは「アラハン」とよびました。人びとからの供養をうけるにふさわしい聖者という意味です。中国の仏教者は「アラハン」の発音をそのまま活かして「阿羅漢」と表現しました。使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」というようになったのです。これが「らかんさん」の語源です。」ということだそうです。