ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

回向院・江戸名所図会めぐり(墨田区両国)

2017年03月31日 23時25分07秒 | 江戸名所図会めぐり

桜の開花で周辺を散策しながら回向院に着きました。何度か来ていますが、今回は江戸名所図会めぐりとして取り上げました。

江戸名所図会

キャプション

烟中寺を見ず/ただ烟外の鐘を聞く/江城秋色遠く/落日高峯に隠る 白石

JR両国駅方面から見ています。江戸古地図では

隅田川の両国橋からの来たところが正門になっています。

★ランドマーク回向院:諸宗山回向院:振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬しています。

あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数あります。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所であり、この馬頭観世音菩薩も徳川家綱の愛馬を供養したことに由来しています。

1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とされています。2月第一土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養を、その他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っているとのことです。

著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などがあります。 1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。古地図でもわかるように位置は現在よりも下流側になっています。

参道

力塚:力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したもの。

万霊供養塚の上に立つ新しい風をイメージに平成14年に安置された聖観世音菩薩立像木遣塚慈母観音塩地蔵:右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきましたそうです。

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。これは回向院のHPに載っている墓石ですが、当日は見事に削り取られていました。

鼠小僧の墓の奥に水子塚があります。陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。水子塚の手前に地蔵さんです。六面六地蔵石幢(墨田区登録文化財)

石造明暦大火横死者等供養塔(東京都登録文化財)

関東大震災供養塔、奥に見えるのが無縁法界塔(墨田区登録文化財)です。 無縁法界塔に刻まれた25名中、判明する9名はいずれも浮世絵の最終段階を受け持つ摺師で、他の人々も彫師や摺師など浮世絵関係者と考えられます。摺師は、彫りの段階では不定なことが多く一つの店に定着せずに店を渡り歩いたといわれます。そのため作品など資料中に摺師の名が残ることは稀です。
 この石碑のような石造物に多くの錦絵関係職人の名前が残ることは珍しく、浮世絵文化を支えた摺師の痕跡を物語る貴重な資料といえます。

関東大震災供養塔は、東京が一朝にして焼土と化した大正12年の関東大震災において、当時の住職であった第21世浄厳師は、役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向し、また被服廠跡や隅田堤で日夜読経念仏したと伝えられます。大正14年に東京市は遺族に対して遺骨の引き取り方を公告。各区にわたる死者は分骨して回向院にも納骨されました。

①海上溺死群生追福之塔と奥の②溺死四十七人墓
   

①海上溺死群生追福之塔は菱垣廻船十組問屋により文化10年(1813)に建立されました。正面に増上寺六十六世冠譽慧厳筆の「南無阿弥陀仏」の名号が彫られています。安政大地震で倒壊し、安政3年(1856)に再建されました。

②溺死四十七人墓は明治2年(1869)1月、肥後熊本藩の軍艦が上総夷隅郡川津村(現千葉県勝浦市川津)海岸で沈没し、その溺死者供養のため、同年3月、富岡文吉などにより建立されました。 

⑤紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓と⑥勢州白子三州高浜船溺死一切精霊

⑤紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓は、樽廻船問屋井上重次郎を中心に酒店・荒荷方等積合中が、徳福丸溺死者供養のために建立しました。

⑥勢州白子三州高浜溺死一切精霊は、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の供養塔です。白子の大黒屋光太夫や高浜の弥兵衛の名が、帆の裏に彫られています。

猫の恩返し(ねこのおんがえし)は、落語の演目の一つ

猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。
すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。

有名人の墓がいくつかあります。

江戸の六大浮世絵師(鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重)のひとりで、美人画で有名な「鳥居清長」のお墓だそうです。法名は「長林英樹居士」

【江戸歌舞伎元祖】  猿若(中村)勘三郎墓

 寛永元年(1624年)中橋南地(現在の京橋)に櫓を建て初興行を始めた所として今も残っているのが京橋にあります。こちらが京橋にある江戸歌舞伎発祥の地の碑です。

竹本義太夫の墓もあります。

馬頭観音堂

回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられており、「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されています。

当院の馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めました。(寺のHPより)

小鳥供養塔犬猫供養塔

新しい犬の供養塔もできています。

墓の中のネコさんは草を食んでいました。

墓の入り口に猫さんが寝ていました。

旧国技館跡地の碑

こちらが今の両国国技館です。相撲協会の写真を拝借しました。

今の両国橋です。

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桜の開花と花たち

2017年03月29日 23時19分43秒 | 季節の花

東京で桜が開花したということで、公園リハビリウオーキングも楽しみになっています。猿江恩賜公園と亀戸天神などの桜と花々を巡ってみました。雨上がりの猿江恩賜公園です。歩く小道に水が溜まっています。公園には27日と29日行っています。27日の桜はほんの一部だけ咲いています。桜の隣で真っ白なコブシでしょうか。

ユキヤナギもほぼ満開です。花越しに東京スカイツリーです。花壇のチューリップが赤くなっています。ノースポールやこんな花が咲き始めています。

最近やけに目につくのはムスカリというのでしょうか。チューリップの花壇に先駆けて咲いていました。菜の花や水仙なども咲き誇っています。

28日には錦糸公園の枝垂れ桜を見てきました。

29日には亀戸天神に行きました。鳥居の所の桜が咲き始めています。

桜越しにスカイツリーが見えます。

こちらはフキノトウの花です。

猿江恩賜公園の桜も29日にはだいぶ咲いていました。

キンクロハジロは静かにたたずんでいました。こちらは27日のミニ木倉の鳥さんです。

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榧寺(正覚寺)江戸名所めぐり

2017年03月23日 12時38分55秒 | 江戸名所図会めぐり

諏訪神社と厩橋の途中に榧寺があります。何度か来ていますがなかなかブログにアップできませんでした。今回江戸名所図会めぐりとしてまとめてみました。

江戸名所図会より

正覚寺 一は榧寺(かやでら)ともいえり と書いてあります。

★ランドマーク榧寺:榧寺は、天正年間(1575年ごろ)から草庵として創始、慶長4年(1599)に増上寺中興開山の観智国師法名貞蓮社源誉上人が池中山盈満院正覚寺として開山したといいます。観智国師は、榧寺以外にも、東小松川源法寺、行徳源心寺などを開山した高僧です。境内に鬱蒼と茂っていた榧の木が、寺宝を火災から護っていたことから、江戸時代から榧寺と称されていました。昭和27年に末寺の山谷町宗念寺と合併、榧寺と改称したといいます。

石川雅望墓(東京都指定文化財):石川雅望は江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字を子柏といった。五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。小伝馬町3丁目の旅館糟屋七兵衛(画名を石川豊信)の子として生れ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。しかし強訴を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩郡府中に住むようになった。彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯者小説類も数種ある。文政13年(1830)閏3月24日歿。年78。(東京都教育委員会)

お初地蔵縁起:大正11年(1922)7月2日、山本春吉の五女初(当時10歳)は、深川の松村関蔵宅にて養母の兼崎まきによって折檻を受け死亡。松村関蔵・兼崎まき夫婦は、それ以前にも、度々初を折檻し、27回にも及ぶ警察の説諭・指導を受けていた。

お初殺しの両名に対する傷害致死死体遺棄事件に関する初公判は、大正11年(1922)11月22日に開かれ、虐待の非情なまでの実態が明かされる。

お初の死を哀れんだ榧寺21世諦我上人が、供養のために「お初地蔵」建立し、遺骨が納められた。この事件は、継子(ままこ)いじめの芝居に仕組まれ、映画にも作られて、当時の庶民大衆の涙をさそった。終わりの場面には、お初の霊がこの世に現れ、鬼夫婦を苦しめるのがお決まりであったという。(お寺さんのHPより)http://www.kayanoki.com/kayadera.html

飴なめ地蔵

厄除け地蔵〔高村光雲作〕

浄瑠璃〔女義太夫〕の初代・竹本綾之助の碑

古地図でも正覚寺のところに(榧寺と云)と書かれています。「御厩川岸之渡」は錦絵に描かれています。

広重 名所江戸百景  御厩河岸 より

広重 

 

 

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諏訪明神社(台東区)、御厩河岸渡(厩橋)江戸名所図会めぐり

2017年03月21日 22時34分44秒 | 江戸名所図会めぐり

東京スカイツリーの周りを一回りしながら周辺を撮ってきました。

どこかに江戸名所図会に出てくる場所があれば思って回ると最後になって台東区駒形にある諏訪明神社(諏訪神社)と厩橋のところの御厩河岸渡に行き着きました。

★ランドマーク諏訪明神社:諏訪神社(駒形)の創建年代は不詳ながら、後冷泉天皇の御代(1045-1068)とも、承久の乱(1221)の後とも伝えられるといいます。江戸時代には当地周辺の地名諏訪町の由来ともなり、明治維新後には村社に列格していました。

境内掲示より:五由緒沿革史

当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが、口碑に依りますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」と云われております。
諏訪信仰が関東に広まるのは、鎌倉時代中頃で当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは「諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである」と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を「武家守護之神」(吾妻鏡)として崇敬しています。又後白河法皇の「染塵秘抄」にも「関より東の王神として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」。その後時の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし、諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏の支援によって諏訪大社の御分社が数多く関東に広まっていったものと考えられています。更に執権北条氏は支配する所領地に諏訪大社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事祭事を執り行っていったと伝えられています。
当社は諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと社史に見えかつては諏訪大社最大の祭である御射山祭と関連する八剣の祭(風祭り神事)が行われていたと云われていますが定かではありません。
当社の別当寺は浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院で「江戸時代は別当として奉仕して来た」と「浅草寺史」に記され当社に関する史料が「修善院呈書」にわずかながら残されています。
当社の所在地は「御府内備考」に「諏訪神社が鎮座してあったので諏訪丁とした」と記され江戸切り絵図寛文十一年板(版)の浅草絵図に「スワ大明神」と著されています。そして「丙訂江戸鹿子」には「近年度その回禄により社頭は形の如くなれども神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀る」と見えます。

江戸名所図会、下が諏訪明神社です。表面鳥居です。境内は狭くて狛犬も拝殿のところにおいてあります。ここから御厩河岸渡今の厩橋に向かいました。

江戸名所図会や広重の錦絵「名所江戸百景御厩河岸 」などにも描かれています。

 ★ランドマーク御厩河岸渡:現在の厩橋付近にあった。川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に付随施設の幕府の馬小屋(厩)があったのでこの名がついた。元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。浅草寺界隈への入口にあたり、本所からも船で多くの人々が訪れた。渡賃は1人2文で武士は無料。明治7(1874)年、少し下流に厩橋(うまやばし)が架けられて、渡しは廃止された 。歌川広重の錦絵「浅草川首尾の松御厩河岸」にも描かれている。

広重:名所江戸百景浅草川首尾の松御厩河岸

厩橋の所から吾妻橋や東京スカイツリーを見てます。

渡しの下流に厩橋ができたので。渡しが廃止になったとあるので、今釣船が係留してあるあたりに渡し場があったようです。対岸は墨田区になります。下流側、下流に見える橋は蔵前橋になります。

こちらは墨田区側から

こののところに厩橋地蔵尊があります。東京大空襲で多数の人が川に飛び込んで亡くなっています。この日はお彼岸で花が供えてありました。

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築地本願寺(西本願寺)

2017年03月19日 12時29分47秒 | 江戸名所図会めぐり

食の安全のつどいの世話人会で中央区に行ってきました。築地本願寺のところにあるので、江戸名所図会めぐりで散策してみました。

本願寺はあいにく境内は工事中でした。でも観光客がたくさん来ていました。以前2014年8月に来ているので、その時の写真を使用します。このときは真夏の平日ということで、あまり参拝客も来てませんでした。江戸名所図会です。

手前が大川(隅田川)になるので、正面は晴海通りのところになっていたようです。

晴海通りのところに門跡がありました。向かい側は築地市場の場外になります。観光地化されて土曜日たくさん見物客が集まっていました。

今は新大橋通りの所が正面になっています。

本堂

★ランドマーク築地本願寺:築地本願寺は江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。

1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。

現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計である。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、松井組(現松井建設)の施工により建築された。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔である。 浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になった。これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。

本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。

今は工事中で入れませんが、境内右手の奥に新大橋よりにこんな石碑がありました。

正門から左に行ったところには親鸞聖人の像や陸上交通殉難者追悼の碑

東京都指定文化財 昭和13年(1938)10月指定

 間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681~1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。

 本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。

 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。

 平成15年(2003)3月 中央区教育委員会

浅野家はこの近く聖路加病院のところにあったようです。

東京都指定文化財 昭和4年(1929)5月 酒井抱一(さかいほういつ)(1762~1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺文如(もんにょ)上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。

 画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年(1815)光琳の100回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。

 門人には鈴木其一(きいつ)、池田孤村(こそん)、田中抱二(ほうじ)などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派(りんぱ)を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒(しょうしゃ)な江戸琳派として完成させました。文政11年(1828年)11月根岸(台東区)の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。

 平成10年(1998)3月 中央区教育委員会

何て読むのかわかりませんでしたが。

東京都指定旧跡 大正13年(1924)1月指定

 土生玄碩(はぶげんせき)は、江戸時代後期の眼科医で宝暦12年(1762年)安芸国吉田(広島県高田郡吉田町)で生れた。名を義寿といい、桑翁(そうおう)と号した。文化7年(1810年)奥医師を拝命し、文化13年法眼に叙せられ、文政5年(1822年)には12代将軍徳川家慶(いえよし)の眼疾を治療した。文政12年シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に、将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座、改易となり、江戸を追放された。嘉永元年(1848年)8月17日、87歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られたが、昭和3年(1928年)12月区画整理のため改葬された。墓標には『桑翁土生君之墓』とある。

 著書には、『銀海波抄(ぎんかいはしょう)』『師談録(しだんろく)』『獺祭録(だっさいろく)』などがある。

 平成11年(1999)3月31日 東京都教育委員会

いろいろな石碑がありました。

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