不忍池の蓮花を見て上野の山に登り奥までやってきました。最後にたどり着いたのが開山堂(両大師)です。
両大師の小史が書かれています。
★ランドマーク開山堂(両大師):開山堂(両大師)上野公園十四番は、正保元年(一六四四)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正は慶安元年(一六四八)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号)を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称していました。
その後、天海がもっとも尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像を寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から移し、安置したため、慈眼大師天海とともに一般には“両大師(りょうだいし)”と呼ばれるようになった。
天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの一つで都指定有形文化財となっています。
良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作で、優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきたもので台東区指定有形文化財となっています。また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存しており、いずれも、国の旧重要美術品となっています。
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切絵図では慈眼堂となっています。
江戸名所図会にも描かれています。左奥が慈眼寺になっています。
厄除け角大師
慈恵大師良源大僧正(912~985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。
良源大僧正の当時、比叡山は度重なる火災で荒廃し、また山内の規律も乱れていました。そこで良源大僧正は堂宇の復興と教学の振興に尽力され、僧風の刷新をはかりました。こうしたことから「比叡山中興の祖」と称賛されています。
また大変に霊力に優れた僧侶であったことから、良源大僧正のお姿を護符にした「角大師(つのだいし)」「豆大師(まめだいし)」という魔除けの大師が広く信仰されました。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。
両大師の詳細については開山堂のHPに詳しく載っていますので、興味のある方は訪問してみてください。
山門を入った右側には阿弥陀堂があります。阿弥陀さんはきれいに磨かれていました。
右:南無虚空蔵菩薩 中:南無阿弥陀如来 左:南無地蔵大菩薩 というような説明書きを見つけました。碑の下側に「昭和十七年」と記されているので、戦争に勝つことでも祈願しているのでしょうか。
山門の左手には地蔵尊があります。法華塔があります。
江戸時代初期の銅灯籠
水盤
拝殿
拝殿に近づいてみると感じる幟がありました。ぼけ封じ祈願です。
手水舎
参道を振り返ってみると
左手に行ったところに井戸と奥が鐘楼になっています。この銅鐘も江戸時代初期のもののようです。
井戸に近くに桜の木が御車返しの桜というようです。寝釈迦石です。
輪王殿とお間の門は幸田露伴旧宅の門だそうです。
寛永寺輪王殿:一般の方も利用できる寺院斎場
輪王殿の所には輪王寺門跡と
旧本坊表門があります。
★ランドマーク寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財): 江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.15ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。
これはその焼け残った表門である。明治11年(1878)、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の先頭の激しさがうかがえる。
平成8年7月 台東区教育委員会
切絵図の御本坊の前にあったものを慈眼堂のところに移転したようです。
御玄関、御本坊と書かれている手前の門が本坊表門です。