久しぶりにリハビリウォーキングに出かけました。管理事務所の前に角松が飾ってありました。
イタリアポプラの葉はすっかり落ちてしまいました。
ミニ木倉の池に渡り鳥
のキンクロハジロが泳いでいました。
ミニ木倉の周りの風景です。
新大橋通り側のところを歩いていると蠟梅の匂いがしてきました。。
ユキヤナギの紅葉です。まだ葉が残っています。
ドウダンツツジもまだ残っています。
真っ赤なハゼもありました。
皐月の花は返り咲きです。
ノボタンは継続して咲いていました。
久しぶりにリハビリウォーキングに出かけました。管理事務所の前に角松が飾ってありました。
イタリアポプラの葉はすっかり落ちてしまいました。
ミニ木倉の池に渡り鳥
のキンクロハジロが泳いでいました。
ミニ木倉の周りの風景です。
新大橋通り側のところを歩いていると蠟梅の匂いがしてきました。。
ユキヤナギの紅葉です。まだ葉が残っています。
ドウダンツツジもまだ残っています。
真っ赤なハゼもありました。
皐月の花は返り咲きです。
ノボタンは継続して咲いていました。
房総半島を1泊で巡ってみました。その中で御宿の月の砂漠の歌碑と和田浜の浜千鳥の歌碑を散策してきたので、アップします。
千葉県夷隅郡御宿町の御宿海岸には、『月の沙漠』に登場する、2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった像が建てられています。その数メートル脇には、『月の沙漠』の冒頭を刻んだ月形の詩碑がありました(加藤の直筆による)。
近くに寄ってみました。冒頭の歌碑を刻んだ月形の詩碑です。
海岸に向かって右手の所には
月の詩碑の表には
★ランドマーク月の砂漠記念像譜:
小麦色の柔らかい 美しい砂丘 この砂丘に寄せては返す波の音は
優しい余韻をもっている 夢とロマンにみちた童謡の名曲
「月の砂漠」は1923年青年詩人 加藤まさを氏によって
御宿のこの砂丘で綴られた そのことを永遠に記念するために
御宿町民が挙ってここに記念像と詩碑を建てる
らくだに乗った王子と姫が 美しい御宿海岸のシンボルとして
多くの人に愛される事を祈ってやまない
1969年7月吉日 御宿町
松並木のところに
★ランドマーク月の砂漠の歌碑:青年詩人加藤まさをがこの御宿海岸抒情詩「月の沙漠」を綴ったのは大正12年のことである。そのころ御宿海岸は起伏果てしなく砂丘の連なりであった。
優れた詩人の感性は、この砂丘に淡い月光に照らされた王子と王女の旅を幻想したのであろう。
この詩は、佐々木すぐるによって作曲され、童謡として広く歌い継がれ、既に半世紀を過ぎている。
加藤まさをは晩年を御宿で過ごし、昭和52年高い、町内の最明寺に眠るが、不朽の名作「月の沙漠」は、日本人の心に愛とロマンを伝え、永久に生き続けることであろう。
「月の沙漠」
作詞:加藤 まさお 作曲:佐々木すぐる
1 月の沙漠を はるばると 旅のらくだが 行きました
金と銀との 鞍置いて 二つならんで 行きました
2 金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕
二つの甕は それぞれに 紐で結んで ありました
3 先の鞍には 王子さま 後の鞍には お姫さま
乗った二人は おそろいの 白い上着を 着てました
4 広い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
朧にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと
砂丘を 越えて行きました 黙って 越えて 行きました
★月の碑と砂漠ラクダ像こんな写真もありました。(よそからお借りしました)
王子のラクダ
お姫様のラクダ
とぼとぼと
砂丘を越えてゆきました。
向かった先はこんな歌碑がありました。
浜千鳥の歌碑です。
★ランドマーク浜千鳥の歌碑:浜千鳥の歌碑は、作詞者鹿島鳴秋が南房総市和田町を愛し度々療養中の愛娘をつれ訪れていました。後に、家族ともども和田町に移り住みました。療養のかいなく愛娘は亡くなりました。愛娘を偲んで童謡「浜ちどり」の歌を作られたとされています。弘田龍太郎の作曲のもと大正9年(1920年)の雑誌少女号の正月号に発表され世間に流布されました。昭和41年3月(1966年)に花園海岸の松林の中に高さ1mの黒御影石の碑石に浜ちどりの歌詞が刻まれ在りし日をしのび建てられました。
こんな写真がありました。建てた当時の者のようです。
★建碑の言葉
土用波が荒れる頃 磯辺の千鳥が月に消えて
海がめが卵を生みにくる 此の土地は
鳴秋が人情の素朴を愛した たった一人の娘 昌子さんが
若くして和田浦で逝った それ以来 彼の切々たる
傷心から「浜ちどり」や 「夜の貝」等の歌詩が
此の海岸の街で生れた 父と娘だけのつながりの
世界に 此の碑を建立して 霊を慰めたい。
終わりに多くの人々の心からの
喜捨を感謝 合掌
昭和四十年十二月 安田誌
和田海岸です。
昼間の仕事が早く終わったので、亀戸天神に寄ってみました。境内に入った途端にい匂いがしてきました。蠟梅でした。橋の向こうにある黄色い葉が未だついているのが蠟梅の木です。
花がいっぱいついていました。
下草を刈る時に落ちたようなひとつの花が落ちていました。いい匂いを振りまいていました。
そのままに自宅に持ち帰りました。家の中が蠟梅の香りに包まれました。
亀戸天神の境内には蠟梅の木が6本ほど植わっています。まだ咲いていない木もありましたが大部分は花が開いていました。
心字池には主?のアオサギが一羽居座っています。
拝殿の脇の庭には火を燃やした跡のようなものが残っていました。家で調べて見ました。
★ランドマーク:古神札焼納式(ふるふだしょうのうしき)
「今年一年間とどこうりなく無事に祭事、神事が斎行できたことに感謝申し上げ、今年最後のご縁日にあたり、宮司が祝詞をあげます。さらに、古神札、しめなわ、お守り等お持ちいただき浄火により御焼納(おたきあげ)し、ご加護に感謝いたします。」天神のご案内にはこのように書かれていました。昨日の12月25日に行われてようです。
太鼓橋の所から東京スカイツリーを見ています。
スイセンも見頃になっていました。
屋台の設営なぼ、初参りの準備が進んていました。
友人と懇親した後、帰路の途中で振り返ってスカイツリーを見たらクリスマス色だったので近くに行って撮ってきました。いつもの西十間橋からの撮りました。
風か吹いていて川面はさざ波でした。
東武橋のところから、月が登ってきました。
12月25日は亀戸中央公園の山茶花を見に行きました。大きな花の笑顔種が満開でした。
リハビリサイクリングで暮れの公園を散策してみました。時々訪れている向島百花園です。入り口の楓もどうにか残っていました。
花はほとんどなく南天など赤みを付けるものが目立っていました。
万両とか
千両でしょうか。
こちらはクロガネモチでしょうか。
松の木は雪吊りがしてありました。
こちらはどんな植物の霜よけなのでしょうか?
★ランドマーク向島百花園:江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。(公園のHPより)ツワブキや
山茶花が咲いていました。
戻り咲きボケです。
園内の楓もまだ残っていました。
猿江公園に異動します。途中で東京スカイツリーです。夜はクリスマスのライティングになるようです。
猿江恩賜公園は蠟梅が咲き始めました。
日本庭園は最後の紅葉です。影
が長く伸びています。
ミニ木倉にはキンクロハジロが泳いでいました。
家に帰る途中で鉢植えのこんな花を見つけました。
団地の楓もまだ刃が残っていました。