ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

木下川薬師・浄光寺

2014年10月27日 20時48分58秒 | 近郊散策

応援の帰り道、どことなく自転車を漕いでいたら、ここに着きました。仁王門です。

常光寺にHPには「青龍山浄光寺は天台宗に属し、「木下川の薬師さま」として広く親しまれてきました。その創建は古く、葛飾区内で4番目に永い歴史を持っています。
  浄光寺はかつて、いまより西北約600mのところにありましたが、荒川放水路の開削工事のため、大正8年(1919)5月、現在地に移ってきました。その後、関東大震災や太平洋戦争によって諸堂宇や寺宝に被害を受けますが、そのたびに復興を遂げ、信仰を育んできました。毎年4月8日には植木市が開かれ、周辺から集まった多くの人びとでにぎわいます。
  また昭和58年(1983)には本格的な文化財調査が行われ、翌59年、文化財14件がいっきょに葛飾区指定文化財になりました。52年と53年の指定と合わせ、現在指定文化財16件を数え、区内で有数の文化財の宝庫となっています。」と書かれていました。

 
薬師堂・釈迦殿は高くそびえたっていました。庶民からも、薬師仏が病気直しに霊験あらたかだとして、たいへん多くの信仰を集めていました。とくに元禄期以降、庶民の生活が豊かになったことにともない、物見遊山を兼ねた寺社詣がふえてきて、浄光寺も薬師道をたどってやってくる江戸の庶民でにぎわったようです。当時の案内板?左薬師道とでも読むのでしょうか。左手の銀杏です。
鐘楼もそびえていました。こんなものもありました。加藤ひな子の碑・山田 顕義の歌碑まったく知らない人ですが、のHPには「加藤ひな子は、安政4年(1857)江戸に生まれました。ひな子は幼い頃から芸事に達者でしたが、待合茶屋(客のひりに山田顕義もいました)を経営するなど、実業家としての顔も持っていました。ひな子のあくなきバイタリティーは女優の養成にも向けられました。明治41年(1908)東京女優養成所が設立されると、ひな子は副所長として迎えられ(所長は女優川上貞奴)、のちの演劇界を代表する女優を育てました。明治42年7月、ひな子は欧米の演劇や音楽を学ぶため、ひとり旅立ちました。ところが、その年の11月26日、旅先のボストンで突然発作を起こし、志半ばで急死しました。浄光寺にあるひな子の歌碑は、明治44年(1911)川上貞奴らがひな子をしのんで建てたものです。 」とありました。手前の赤い石の碑のようです。銀杏が色付いていました。
この後墨田に戻りました。
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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (木下川薬師)
2024-08-31 07:11:32
木下川薬師
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Unknown (木下川薬師)
2024-08-31 07:11:45
> 木下川薬師 さんへ
> 中尾彬 への返信
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Unknown (大石芽依)
2024-08-31 07:11:56
赤尾彦作
返信する

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