ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

江東デルタ水門(荒川ロックゲートから)

2017年05月05日 15時36分39秒 | 近郊散策

住んでるところは江東デルタ地帯の真ん中です。普段は気にかけていませんでしたが、旧中川から荒川放水路(荒川)が合流する地点にある荒川ロックゲートを見て水門や閘門(こうもん・ロックゲート)守られていることに気づきました。それですべての水門や閘門を散策してみました。荒川ロックゲートです。荒川に排出される水路です。

従来はこちらに流れていたようですが埋め立てられています。

★ランドマーク荒川ロックゲート:荒川と旧中川とを結ぶ閘門(こうもん・ロックゲート)と呼ばれる施設です。ロックゲート(=閘門)とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設です。川と川のあいだに水門をつくって、水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通します。荒川と旧中川は水面差が最大3.1メートルにもなるため、船の往来が不可能でしたが、ロックゲートの完成によって、荒川と旧中川、小名木川、そして隅田川が結ばれました(平成17年10月完成)。
 災害時に鉄道や道路が使えなくなったとき、川を通して救援物質や復旧資材の運搬、被災者の救出など災害復旧活動の支援が出来るようになるなど、地域の防災拠点として活躍します。
(国土交通省 荒川下流河川事務所 荒川ロックゲートHPより)

江東デルタ地帯はこれらの水門などで守られています。

北十間川をさかのぼります。横十間川との交差地点です。

スカイツリーの東武橋のところに北十間川樋門があります。源森橋から見ています。隅田川の出入り口に源森川水門です。隅田川の東武の鉄橋の下流に出ます。

ここに墨田区役所がありますが勝海舟の碑が建っています。

隅田川を下って行きます。両国橋を越えて堅川の出口にある堅川水門です。テラスに降りて見ました。上流に両国橋が見えます。テラスからみた水門です。

こちらは一の橋から見ています。次は小名木川と隅田川の合流地点です。万年橋です。合流地点から清澄橋が見えるということでケルンの眺めだそうです。水門は万年橋より内側にありました。

中川口に船番所ができる前はここにあったようです。さらに下流に向かっていくと仙台掘り側の出口ですが埋め立てられていて

水路は残っているようです。

ここは大横川と隅田川の合流地点です。大島川水門と書かれています。左側は越中島になります。

ここから小名木川に戻ります。

清澄庭園に手前に芭蕉さんか座っていました。奥の細道はここから始まったようです。海辺橋のところです。

扇橋のところに扇橋閘門の説明書きがありました。

住まいのある横十間川と旧中川に囲まれた地帯が最も低いようです。

水門は工事中のところが多くありました。さらに補強して大地震にも耐えられることを願っています。

 

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橋場不動院・今戸神社

2016年05月09日 22時42分04秒 | 近郊散策

午前中にリハビリ病院の外来にいってきました。雨が降りそうでしたが病院の前の歩道橋を通って上がり[この写真は3月25日の物です)水神大橋を渡って隅田川の西岸を浅草に向かいました。スパー堤防はシロツメクサが一面覆っていました。

白髭橋です。

 

白髭橋のところは

こんな場所だったようです。

歌川広重の「名所江戸百景「隅田川水神の森真崎」

遠くに筑波山が見えているとのことです。

古地図では船ワタシと書かれているところになるようです。

ちなみにリハビリ病院のあるとことろは、枹ヤシキ御殿場と書かれているところになります。

名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈

煙は今戸焼ぼ竃でしょうか。

こちらは雪景色

歌川 広重(2代)  隅田川八景 橋場暮雪

今の隅田川はこのようになっています。

見える橋が渡ってきた水神大橋です。

白髭橋からのスカイツリーです。

古地図にある不動インはこちらでしょうか。

★ランドマーク不動院:HPには「不動院(橋場不動尊)は、天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。

 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大化、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。
 現在の本堂は、弘化2(1845)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしています。」とかかれています。

奥に墓地とかあるようですが、これ以上中には入りにくいようになっていました。本堂の脇の地蔵尊です。

ここを通り過ぎると、次に今戸神社がありました。

 

古地図には見当たりませんでした。よく調べてみたtら八幡宮と書いてあるのが今戸神社の前身です。

永倉新八の”同志連名記”によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。
松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。
今戸八幡は現在、今戸神社と改称し、境内に”沖田総司終焉之地”の碑があります。

長昌寺の江戸名所図会にも今戸焼の煙が上っているのが描かれています。江戸名所図会大人の塗り絵より

歌川 広重(2代)東都名所ノ内 隅田川八景今戸夕照

歌川 広重(2代) 江戸自慢三十六興 今戸焼物

今戸焼招き猫(いまどやきまねきねこ)
 
”招き猫”は商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られておりますが、猫は古代から神秘的な力をもつと考えられていました。
いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれております。
伝わるところでは、江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。”自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる”と。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。

今戸神社の絵馬は、丸い形をしています。「角が立たない」「円満に収まる」ようにと角をとってあるのだとか。そして赤い糸で結んであるのは「円結び」と「縁結び」をかけているのだということだそうです。

台東区有形文化財(歴史資料)
 
この狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822年)に再興されました。
浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作したといわれています。
今戸焼は江戸時代から今戸周辺の地場産業。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などの焼き物を生産販売していました。
狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人と世話人の42人の名前があります。職人達が寄進したことが分かる貴重な資料です。職人は、火鉢屋、土器屋、焙烙(ほうろく)屋に所属し、食器や調理器具など日常生活道具を生産していました。残念なのは、いま、今戸焼を継承しているのはわずか1軒になってしまったことです。

 

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鬼平情景散策

2016年04月17日 21時44分43秒 | 近郊散策

リハビリあまり歩けないので、近場を自転車で散策しました。

鬼平情景散策がまだ残っているので行ってみました。長谷川平蔵の旧邸の所では幟が立っていました。だいぶ痛んでいました。何時からたてているのでしょうか。

【高札14】長谷川平蔵の旧邸(墨田区緑4-12-7)
「鬼平」こと平蔵が27歳のときまで暮らしていた屋敷のあった場所です。実父の宣雄が目黒行人坂の下手人を捕らえた手柄により京都町奉行に出世し、長谷川家はこの地を去りました。

こちらは小さな公園の片隅にありました。

【高札13】相模の彦十の家(墨田区亀沢4-14-6)
彦十は本所松井町の「岡場所」に巣食う香具師あがりの無類者。若かりし平蔵が、放蕩無類の暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人です。密偵に転じると、その働きは目を見張るものがありました。

次の場所に行くのがちょっと大変でした。途中にこんな所がありました。いつのまにか江東区に入っていました。

立札の下はタンポポでした。

昔の二つ目通り「清澄通り」を渡ると角にありました。

【高札16】茶店笹や(墨田区千歳3-5-8)
弥勒寺の門前にあり、平蔵が放蕩無類の日々を送り「本所の銕」と呼ばれていた頃をよく知るお熊婆さんのお店。火盗改の長官になってからは出先のような役割を担い、多くの作品に登場します。

次もなかなか見つかりませんでした。

というのもマンションの玄関にありました。

【高札15】煙草屋・壺屋(墨田区両国4-4-5)
大盗・蓑火の喜之助の下で修行した盗賊・大滝の五郎蔵は捕縛された後、密偵となり、義父・舟形の宗平とこの店を始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも同居。多くの作品に登場します。

両国まで来てしまったので、ここも見て見ました。吉良邸跡です。

一般社団法人 墨田区観光協会のPHより「吉良邸跡(本所松坂町公園):吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)あり、坪数2,550坪(約8,400㎡)と諸書に記されています。吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。本所松坂町公園は昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されました。」とあります。

次に向かったのは東京都慰霊堂のある横網町公園です。

東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。

当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。

横網公園の日本庭園です。:慰霊堂の北側約700坪(約2300㎡)の地域は、林泉式日本庭園としています。これは震災時、清澄庭園や安田庭園など都内の庭園が、人命の保護に役立ったことを教訓として計画されたものです。当初の設計は造庭家 平山勝蔵氏(1899~1990)で、後に東京農大教授となられ水禽窟の研究で有名です。

日本庭園から見た東京スカイツリーです。

団地に戻ると牡丹が咲いていました。

写真を撮っていない鬼平情景の高札はあと二カ所になりました。

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鬼平犯科帳ゆかりの高札(枕橋・如意輪寺)

2016年04月14日 22時49分50秒 | 近郊散策

外来のリハビリに行ってきました。帰りに墨田区役所に寄ってきました。区役所の裏手は枕橋になっておりここにも高札がありました。

【高札3】枕橋 さなだや(墨田区向島1-1)
「蛇の眼」で平蔵の勘が、蛇の平十郎の去っていく姿に「あやしい奴」と感じた場所で、当時は源兵衛橋と呼ばれていました。

ガラス窓が区役所ですが、これを通り越したところの一角に如意輪寺がありました。

【高札2】如意輪寺(墨田区吾妻橋1-22-14)
嘉祥2(849)年、慈覚大師が聖徳太子自作の太子像を安置したことに始まると伝わる天台宗の古刹。第4巻の「敵」では、寺の前の花屋が盗人宿となっています。

門に太子堂と

如意輪寺となっています。

こちらは太子堂です。

 

太子堂の入り口のところに六面地蔵塔がありました。

リハビリ病院から墨堤通りに出たところにこんな看板がありました。

池波正太郎の剣客商売で秋山小兵衛の若いつれあい「おはる」の実家が関屋村と出てきますが、関屋の里のことと思い撮ってみました。

 

 

 

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鬼平犯科帳ゆかりの高札

2016年04月13日 20時10分56秒 | 近郊散策

リハビリ病院の本棚にあった池波正太郎の「鬼平犯科帳」1と「剣客商売」1-6までを読んで池波正太郎に興味を持ち鬼平犯科帳は24巻すべて購入してほとんど入院中に読んでしまいました。両シリーズとも墨田、台東、江東などの場所が舞台になっているので、一度その場所を見たいと思っていました。病院の行き帰りなどで時々鬼平情景と高札に出合うので調べてみました。

★ランドマーク「鬼平犯科帳ゆかりの高札」:「墨田区は、地域の観光資源を活かしたまち歩き観光を積極的に推進することで、区内回遊の促進を図っています。このたび、その一環として、区内の16 ヶ所に、「鬼平犯科帳」とのゆかりを紹介する高札を整備いたしました。
鬼平ファンの方はもちろん、鬼平のことを良く知らない方にとっても絶好の道標となっておりますので、すみだのまち歩きにぜひ御活用ください。」となっていました

すべての高札設置位置図はこちらから見られますhttps://www.city.sumida.lg.jp/bunka_kanko/annnai/hankatyou.files/settiiti.pdf

【 】の説明書きは墨田区のHPに書かれているものです。

まず先日も訪れましたが法恩寺から

【高札12】法恩寺(墨田区太平1-26-16)
太田道灌ゆかりの寺で、「本所桜屋敷」では平蔵と左馬之助が門前の茶店「ひしや」で20余年ぶりに旧交を温める場面に登場。「尻毛の長右衛門」は、この法恩寺から物語が始まります。

すぐ近くには

高杉銀平道場跡がありました。

【高札11】高杉銀平道場(墨田区太平1-25-4)
横川沿いの出村町にあった道場に平蔵が19歳のときに入門し、ここで生涯の友・岸井左馬之助に出会います。高杉先生から同時に目録を授けられ「竜虎」と呼ばれました。

左手の緑の木の所が法恩寺です。

ここから大横川に入って紅葉橋のわきには

【高札10】出村の桜屋敷(墨田区横川1-1)
平蔵と左馬之助は田坂直右衛門の孫娘・おふさに想いを寄せていました。横川を行く、おふさの嫁入り舟を平蔵と左馬之助が万感の思いで見送る場面は心に残ります。

ツタの茂っている建物は倉庫らしいですが、ツタに交じって藤がすでに花を付けていました。今年は藤の花も早く見ごろになりそうです。

これを北に向かうと業平橋です。

【高札7】業平橋(墨田区吾妻橋3-4)
「敵」の中で、大滝の五郎蔵が橋を渡ったところで尾行されていると感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立に身を隠す場面で登場します。

西尾隠岐守下屋敷はこちら

【高札8】西尾隠岐守屋敷(墨田区業平1-13-7)
遠江国横須賀藩3万5千石の西尾家下屋敷がありました。周辺は穏やかな田園風景が広がる人気の行楽地。夜になると下屋敷は博奕場へと変わり、すねにきずを持つ者が身を隠す場所として作品に登場します。

少し離れたところに

【高札9】春慶寺(墨田区業平2-14-9)
平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は春慶寺が主な舞台になっており、寺域や押上周辺の当時の様子が描かれています。

春慶寺には岸井左馬之助役をした江守徹さんが石碑を立てています。

春慶寺に墓がある有名人?四世鶴屋南北の墓

高札の残りはまた日を改めて回ってみます。

この日回ったところは、いずれも東京スカイツリーの足元になっています。業平橋の下から撮ったツリーです。

出かけると時は晴れていましたが、曇ってきてしまいました。

出かけに錦糸公園で八重桜を撮りました。

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