仕事を終えて亀戸4丁目をサイクリングしていたら、小さな神社を見つけました。
長く亀戸に住んでいますが、初めて見ました。
由緒書きの石碑がありました。
★ランドマーク石井神社:当社は嵯峨天皇の御代弘仁弐年(811年)九月弘法大師により発現せられたる社にして、級長彦命、津長井命、岡象女命の三柱を奉齊し亀井戸郷中図子の鎮守社にして毎年九月二十八日を以て例祭日となし当日、薩摩芋数拾俵町内住民より献じ後これを参拝者及び里童に授け與う別名おしゃもじ様の芋祭りと称す。熱病除、百日咳除におしゃもじを拝受して特殊霊験顕著なりしは数多き崇敬者ありし事で知るべし。
昭和40年4月
よく読めませんが、
『当社は祭神、級長彦命、凡象女命、津長井命をまつり、9月28日を例祭としている。俗に「おしゃもじ稲荷」とよび、咳の病をなおす神として信仰され、神社からおしゃもじ(飯杓子)1本をかりてきて、自宅でこれを神体として拝み、病が治ればお礼に新しい飯杓子1本をそえて、もとの飯杓子とともに2本を神社に返す。当社は石器時代の石棒を神体としたが、いまでも石棒を神体とする神祠は各所に存在する。例えば
練馬区石神井4丁目 石神井神社
葛飾区立石8丁目44 熊野神社
豊島区西巣鴨4丁目8 正法院の石神
「板橋区仲宿28 文殊院の石神
などがある。
鳥居竜蔵博士は、亀戸に石棒をまつる神社のあったことは、他の例からみて亀戸が石器時代から存在していたと延べている。「元禄の頃出版した「江戸鹿子」を見ると、亀戸に石神社(いまの石井神社)と云うのがあって、同書は高台にある石棒を祭ってある同神社と共に記して居ります。
(中略)亀戸の石棒に対して面白いのは、吾妻の森から北の方、中川に接した立石村に熊野神社があって、此処に石棒を祭っていることです。私は此の立石の石棒も亀戸の石棒と共に、すでに其時代から其処にあったものと思われます(鳥居竜蔵書「武蔵野及其周囲」)」。
飯杓子を奉納する神社は、石棒を神体とすることが普通であるが、これは石棒を祭る神社を石神(しゃくじん)とよび、「しゃくじん」が「しゃくし」となり、飯杓子を奉納することになった。また石神を「せきしん」とよぶこともあって、「せき」が咳の病と同音であるから咳の神にもなった。
当社は、昭和20年の戦災で、社殿を焼失し、いまは小祠となっている。当社の飯杓子奉納のことは、
文政3年(1820)刊行の、大石千引著「野万舎随筆」に、
「咳神(せきがみ)、葛飾の亀戸村に、オシャモジという神の祠有り、神前に杓子を夥しくつめり、依て其故よしを土人に問けるに、咳病を煩う人、此神に願たてぬれば、さはやぐ事すみやかなり。此故に報賽に杓子を奉納するといへり。」
と述べ、その由来の古いことがわかる。』
参詣の流れは、神社からしゃもじを1本借りてきて自宅でご神体として拝み、病が直ればお礼に新しいしゃもじを1本添えて、借りてきた元のしゃもじとともに2本返納するというもの。拝殿の中に高さ160センチある巨大なしゃもじが祀られている。
近くに東覚寺がありました。
不動明王標柱
★ランドマーク東覚寺:東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34年(1901)覚王寺を合併しました。覚王寺は江東区猿江2-15付近にあり、御府内八十八ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689-773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。
亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。
弁財天
•石造宝篋印塔弘法大師千五十年忌(江東区登録文化財)でしょうか
石造燈籠金森頼時奉納寛永寺旧蔵(江東区登録文化財)でしょうか。
社務所
本堂
墓地から見ています。
•庚申塔
石造五輪塔天保10年在銘(江東区登録文化財)
•是心軒一露居士碑明治32年在銘
古地図では
広重に描かれた「名木臥龍梅」の梅屋敷の近くになっています。
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