ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

大川橋(吾妻橋)から吾嬬の森・吾嬬神社(江戸名所図会めぐり)

2017年02月08日 14時12分45秒 | 江戸名所図会めぐり

吾妻橋の袂の所の役所に通っていましたが、吾妻橋をしっかり調べたことはありませんでした。江戸名所図会より

最近になって江戸名所図会めぐりをしていると、吾妻橋(大川橋)が描かれているいろことを知りました。

★ランドマーク吾妻橋:吾妻橋は、1774(安永3)年に木造で架橋され、当時は隅田川が大川と呼称されていたことにちなんで「大川橋」と呼ばれていました。1876(明治9)年に架け替えが行われ、正式に「吾妻橋」と命名されました。その後数度の架け替えを経て、1923(大正12)年の関東大震災で被災し、1931(昭和6)年に現在の橋になりました。
吾妻橋の名前の由来は諸説ありますが、東岸にある吾嬬(あづま)神社への道筋にあたることから吾妻橋となったという説が有力といわれています。

袂のところにあづま地蔵尊があります。

ここには関東大震災の犠牲者が祀られています。私は祖父から大震災の直後にここにきて死体の処理したと聞かされました。墨田では家財道具を持って逃げてきた人が多数亡くなった横網町の被服廠跡地での火災が有名ですが、隅田川でも大量の死体が浮いていたそうです。その後の東京大空襲でもたくさんの人が飛び込んで死んだところでした。

地蔵尊の所から浅草方面を見ているとこです。

わたしの彩江戸名所図会大人の塗り絵より

江戸名所図会の上の右の所の川が源守川で、北十間川につながり吾嬬の森にまで続いています。

今は源森川の手前に墨田区役所やアサヒビールの本社が建っています。橋は浅草からアサヒビールの本社や東京スカイツリーへの通う橋になっています。

錦絵にもいろいろと描かれています。吾妻橋夕涼景(歌川国貞 初代)

東都八景 浅草夕照(広重)吾妻橋から浅草寺を見ています。

北十間川を下って行くと川沿いにあった梅屋敷を見ながら対岸に吾嬬の森(吾嬬神社)が見えてきます。

江戸名所図会より 

キャプション

鳥がなくあづまの森を見わたせば月は入り江の波ぞしらめる 藤原恭光人道 この和歌は戸田茂睡入道のあらはせる『鳥の跡』 といへる和歌の集に載せたりし、みづからの詠なり。そのはしに「この吾妻の森は東人(あづまびと)といへるが住みしところなり」とあり。 この東人いかなる人にや、いまだ考へず。

広重 名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓

<墨田区登録文化財>吾嬬森碑(あづまのもりひ)  所在地 墨田区立花1丁目1番15号 吾嬬神社内
 この碑は、明和3年(1766)に儒学者山形大貮により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして『葛西志』や『江戸名所図会』にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃、弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。『新編武蔵風土記稿』には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
 神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟(れんりのくす)」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の『江戸名所百景』にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化尽 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
 明治43年(1910)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根差した伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。広重

連理の樟連理の樟は日本武尊が使った箸を地に刺したところ、1つの根から2つの幹を持つ樟が育ったと伝わる。現在は枯れ、根と幹の一部が残されている。

 ★ランドマーク吾嬬権現社:吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられています。後に、弟橘媛を慕って正治2年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したといわれています。ここの住所は墨田区立花ですが、この弟橘(立花)媛の言い伝えにより命名されたといわれています。

弟橘姫入水も描かれている

江戸名称図会 弟橘媛入水

キャプション 

日本武尊東夷征伐したまうとき、相模国より上総国に往かんとしたまひ、その海上暴風(あらしまかぜ)たちまちに起こり、 王船漂蕩(みふねただよ)ふて危ふかりしかば、妾(みめ)弟橘媛みづからの御身をもて贖(あがな)ひ、 尊の命をたすけまゐらせんことを海神(わたつみ)に誓い、つひに瀾(なみ)を披(わ)けて入りたまひぬることは『日本紀』にみえたり。

ここから少れ離れた江東区亀戸9丁目には亀戸浅間神社がありますが、浅間神社の裏にある富士塚の場所は弟橘媛の笄が流れ着いたところ言われています。

亀戸浅間神社富士塚

右手にそびえている樟が昔の神樟の所に植えられたものです。

 

昔は浮島とも言われたらしいですが、今は地盤沈下で堤防よりだいぶ下がっています。

吾嬬神社の石造狛犬 安永2年(1773年)5月

紀年銘から、日本橋本小田原町・同本船町地引河岸の「子供中」(若者組の下部組織)によって奉納されたものと分かります。台座には、「子供中」の関係者であったと思われる世話人10名と、奉納者22名の名前も刻まれています。彼らの素性を改めて調べてみると、多くが日本橋魚河岸周辺に居住した魚の卸売商人たちであったらしいことも分かります。
 奉納目的は定かでありませんが、吾嬬神社(江戸時代には吾妻権現社)は、日本武尊の東征伝承の中に登場する弟橘姫命ゆかりの旧跡とされ、海上守護の祈願所として知られていました。したがって、日本橋魚河岸周辺の居住者による奉納行為は、こうした伝承にもとづくものであったのではないかと考えられます。(墨田区登録文化財)

吾嬬神社縁起

この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かつてはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。(すみだの史跡散歩より)

社殿です。

右手にある稲荷神社は福神稲荷神社です。

 

 

 

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旧中川の河津桜・亀戸中央公園

2017年02月06日 23時29分08秒 | 季節の花

午後一の仕事を終えて亀戸中央公園と公園に面している旧中川にを訪れました。亀戸中央公園は山茶花を多く植えてありますがすでに盛りは過ぎていました。

でも遅咲きの笑顔とうサザンカがきれいにさいていました。

★ランドマーク亀戸中央公園:この公園は、日立製作所の亀戸工場のあったところを整備したもので、A・B・Cの3地区に分かれています。
A地区には、中央広場に時計塔や遊具が設置され、子供たちの格好の遊び場になっています。
B地区には、人工池、流れがあり周囲は憩いの広場となっています。
C地区は、運動広場として整備され、多目的球技広場、テニスコートのほか児童コーナーがあり、ターザンロープ等の遊具は子供たちの人気を集めています。
またこの公園は「サザンカの名所」として親しまれています。

公園を抜けて旧中川に向かうと対岸にピンクの花が見えました。総武線の架橋の手前にあります。

★ランドマーク旧中川:東京都江戸川区平井の木下川水門で荒川放水路(荒川本流)から分水する。大きく蛇行しながら南へ流れ、江戸川区小松川の荒川ロックゲートから、ふたたび荒川へ合流する。川の東側はすべて江戸川区、西側は北十間川との合流地点までは墨田区、それより南の荒川ロックゲートまでは江東区となっている。

明治時代の地図をみるとこんな風になります。

江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」(燈明寺)、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで、情緒豊かな川であったことが知られており、川沿いに史跡が残っています。

中川と北十間川が交差してい所です。スカイツリーは北十間川と大横川の交差するところの近くに建っています。写真を撮っているのはふれあい橋の上からです。堤防の上をピンクの花に近づいてみました。平日の午後ですが数名が写真を撮っていました。振り返ってふれあい橋を見ます。もっとも架橋に近づいてみました。離れながらよく咲いているようなものを撮りました。

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河津桜・木場公園

2017年02月03日 21時43分43秒 | 今日の写真から

昨日より風も少なくなったので、見たいと思っていた木場公園脇の大横川堤防にある河津桜を見に行きました。自宅から4㎞弱なので自転車でリハビリを兼ねて行っていきました。まだ1-2分咲きというところですが、早咲きの木は結構きれいに咲いていました。

左側の道路を隔てて都立の木場公園があります。

公園の中にある植物園の花も少なかったですがいくつか撮ってきました。

エリカの花が咲いていました。

梅も城梅の紅梅と咲いていました。帰りにもう一度大横川に戻って、少し上流にある河津桜を見ました。ちょっと種類が違う感じがします。桜の向こうに東京スカイツリーが見えます。

仙台掘り公園のところに地蔵堂がありました。千石地蔵尊の由来
 昭和20年3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、堀割や路傍、学校などで、尊い瀬名が数多く奪われ殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた。杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無残な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年3月10日 千石長寿会 会長 山岡英太郎

大横川と小名木川が交差するところに猿江船改番所跡の案内板がありました.

★ランドマーク:猿江船改番所跡(猿江1-1付近)
 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置されました。
 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。 平成6年3月 江東区教育委員会。新扇橋の所です。

帰りがけに猿江恩賜公園に寄ってリハビリウォーキングで2周回りました。ミニ木蔵の池にはユリカモメが群れていました。

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梅屋敷跡(江東区亀戸)江戸名所図会めぐり

2017年02月02日 22時17分22秒 | 江戸名所図会めぐり

先日いった小村井の梅香園に行こうと出かけたところ北十間川の手前の梅屋敷跡のところの梅も少し咲いていました。

★ランドマーク梅屋敷跡: 江東区登録史跡 梅屋敷 

  梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。

前の通りは浅草通りです。北十間川のところにも梅が咲いていたので渡ってみました。梅越しに東京スカイツリーが見えます。

北十間川から案内板のところを見ています。

1802年の古地図では梅屋敷が描かれています。広重などの浮世絵でもいっぱい描かれています。特に有名なのがこの臥龍梅です。

 広重はこのほかにも江戸自慢三十六興 梅やしき漬梅や

東都三十六景 亀戸梅やしき東都名所 亀戸梅屋舗全図などがあります。

江戸名所図会より

キャプション:白雲の竜をつつむや梅の花 嵐雪 

如月(きさらぎ)の花盛りには容色残(のこ)んの雪を欺き、余香は芬々(ふんぷん)として四方 (よも)に馥(かんば)し。また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈(あがな)ふ。 味はひことに甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづと)とす。

ここから小村井香取神社の小村井梅園に向かいました。

小村井梅園の由来
 小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。
 香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸(でど)五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有(としごとおなりあり)」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く大きな実も獲れました。
 園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が2列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣掘りもあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽(たつみ)の方に在り此の所に香取の社あり、その傍(かたわら)梅園ありて満開の節は薫風馥郁(くんぷうふくいく)として行人の鼻を穿(うが)つ、実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景 ・・・・・・ 」 と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。
面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。
                      平成二年九月吉日 平成二年度 世話人

 安藤広重「小村井梅園の図」

 

平日で中には入れませんが、周りの梅が見られます玉牡丹と書かれています。

前回よりだいぶ咲いていました。

八重松島と札に書いてあります。これは亀戸天神でも咲いていた呉服枝垂です。

ということで結構きれいに咲いていました。

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小山明神宮・天祖神社(港区三田)江戸名所図会めぐり

2017年02月01日 09時22分05秒 | 江戸名所図会めぐり

善福寺散策してから時間があったので周辺を散策しました。オーストラリア大使館の前の坂道を下りていくと元明神宮がありました。天祖神社でもあるようです。

ついでに思って散策したのですが、なんと江戸名所図会の小山明神宮でした。こちらは「わたしの彩江戸名所図会大人の塗り絵」から

★ランドマーク元明神宮:当社は平安時代の寛弘二年(1005年)一條天皇の勅命により創建され古くは渡辺綱の産土神として数多くの武将等の崇敬を受けて来ました。
江戸時代に入り徳川家の命により神社を飯倉神明、芝神明、芝大神宮に遷そうというところを氏子崇敬者の人々が御神体だけは譲れないと昼夜交替で護ったと伝えられております。それ以後地域の方々からは当社を元神明の呼び名で親しまれて来ました。
関東大震災や東京大空襲・出征兵士等を多くの厄災から守った事から近年では厄除のお社として全国の方々より崇敬されております。「天祖神社」は明治政府により定められた社号です。当社は平成十七年九月で御鎮座1,000年になる古社です。(境内掲示より)

平成六年六月に完成した社殿。天白稲荷神社

平河稲荷

水盤天和3年と彫られています。天和2年(1682年)は八百屋お七の火事があった年だそうです。水盤が大きいのは防水の為でしょうか。

燈籠こちらの石像が何の神様かわかりませんでした。

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