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イスタンブルの通りにトルコ人を救った日本人将校の名がつけられた

2020年02月16日 | 国内
2月18日 第一次世界大戦中、ロシア軍の捕虜になったトルコ兵士1012人をイスタンブルに送り届けた日本の船「平明丸」の司令官の名が、ベイコズ区の通りの名になりました。

 Hurriyet

ユウキチ・ツムラ中佐は、エーゲ海でトルコ兵捕虜の引き渡しを求めたギリシャの要求を拒否しました。津村中佐の英雄的行為は、ハイリエ・サワシュチュオール監督によって「平明丸:母国トルコへ帰るとき」という記録映画になりました。

第一次大戦中、コーカサス前線で、6万5000人のオスマン帝国兵士がロシアの捕虜になり、兵士たちの一部はロシア極東の港町ウラジオストックのキャンプに送られました。1914年4月、日本が、ロシアのボルシェヴィキ革命による混乱を利用してウラジオストックを占領したとき、日本はオスマン軍捕虜への責任も引き継ぎました。

戦後、1921年、日本はトルコ兵をイスタンブルに送還することにしました。トルコ政府はトルコ兵たちの送還のために4万8000ポンドを送り、日本政府は送還船「平明丸」の司令官に津村中尉を任命しました。トルコ兵の中には、捕虜期間中に現地で結婚した者もいましたが、兵士たちは家族も連れて、1921年2月23日、トルコへ向け出帆しました。船はスエズ運河を通って地中海を進み、イスタンブルへ向かいました。

4月5日、平明丸はレスボス島近くで、ギリシャ戦艦に止められました。ギリシャはトルコ兵らを引き渡すよう要求しましたが、津村中佐は要求を拒否しました。しかし、船がイスタンブルへ着くのは容易ではありませんでした。兵士らの中には、コルシカ島とサルディニア島の間に位置するアシナラ島に連行され、病気で死んだ者もありました。最終的に、1922年6月19日、「ウミト・フェリー」がアシナラ島に行き、トルコ兵らをイスタンブルに連れ戻しました。

2019年7月1日、イスタンブル市議会のサドゥラフ・カバハサンオール議員が、津村中佐の名をイスタンブルの通りの名に残すようベイコズ区議会に要請しました。「日本の司令官は大きな勇気をもって、トルコ兵をギリシャに渡さなかった。私は津村中佐の名をわが区の通りの名にすることを敬意をもって要請する」とカバハサンオール議員は議会で要請しました。市議会は市のアジア側のベイコズ区の大通りに、津村中佐の名を冠することを受け入れました。


トルコの「赤新月社」がイドリブ難民にテントを提供

トルコの赤新月社が、2月16日、北西シリア・イドリブから逃げてきたシリア人たちに、テントとヒーターを配りました。

 Hurriyet

赤新月社はまた、トルコ国境に近いマシュハド・ルヒン地方の人々に、ベッド、毛布、食物を配りました。トルコ赤新月社の国境援助作戦のリーダー、ハカン・サルさんは、ほとんどのシリア人はイドリブの激しい攻撃によって、北へ逃げざるを得なった人々だと言いました。

「私たちは、とくにテントのない家族にテントを提供しました。彼らはオリーブの木の下にテントを張りました」とサルさんは言いました。赤新月社はまた、衛生用品と、子供たちのためにクッキーとチョコレートを配りました。

2018年9月、トルコとロシアは、イドリブを、攻撃活動を禁じるデスカレーション地帯にすることで合意しました。しかし、それ以後も、1800人以上の市民が、体制側とロシア軍の攻撃によって殺されています。彼らは2018年の休戦協定も、1月12日に始まった新たな休戦協定も無視しています。

170万人以上のシリア人が、激しい攻撃を逃れて、トルコ国境近くに移動してきています。トルコは、2011年にシリア内戦が始まってから370万人のシリア難民を受け入れ、世界最大の難民受け入れ国になっています。


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