さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

瑛九展 横須賀美術館

2024年10月20日 | 美術・絵画
 私は晩年の瑛九の点描画の実物をまとめて見たのは、これがはじめてだ。実に神々しい美しさに満ちた作品群であった。当日は、出先の鎌倉駅から横須賀駅まで三浦半島を横断する電車に乗ってみると、思ったよりも速く着いて、横須賀駅を降りたすぐ目の前に大きな空母の横腹が見えるのが物珍しい。観音崎までのバスは三十分くらいだが、平日だったので空いていた。

日本橋高島屋の北川健次展で手渡してもらった北川氏の書いた瑛九展についての文章に背中を押されて、「これは何としても見に行かなければ」と思ったのがよかった。例の日本の美術館の貧弱な購入費のせいで、新規購入のものはあまりないようだったが、フォトデッサンの良品がまとめて見られた。創作技法についての解説も行き届いていて、画家が使用した道具の実物も見られる良質の展覧会である。瑛九の油彩画は、掛けっぱなしにされないせいか、あまり褪色していない。宮崎県立美術館から多くの大作がもって来られていて、ありがたいことだった。

この展覧会は最近亡くなった久保貞次郎へのなによりの追善であろう。戦後の食べ物も何もない時期に瑛九の作品を買って、その制作を支えたのは、私たちだけだったと久保はその自伝に書いている。久保が収集していた瑛九の作品は、みんな町田の版画美術館あたりに行くのだろうと思っていたら、最近の古書系の販売カタログにかなり多くのものが掲載されていたので、相当な点数が市場に出たものとみえる。しかし、絵というものは、個人が日々の生活の間に賞玩するのが本筋であろうから、リトグラフやスケッチの全作品集が編まれる唯一のチャンスが失われたのは残念なことだけれども、あの世の画家は別に気にしないと言うかもしれない。

とにかくあの点描画は一見の価値がある。わたくしが存在する宇宙というもの、森羅万象のすべてのうごきが、画面にとらえられていると感じる。

江戸雪歌集『カーディガン』

2024年10月12日 | 新・現代短歌
どんなに技巧をこらしていても歌の言葉が自然に感じられるように読める歌集というのは、いい歌集である。それは、ぱらぱらと流し読みしただけで感じ取れるもので、空気のようなものだ。香り、と言ってもいいが、無意味な歌ほど、その気配だけで立ち上がってきて、こちらにしみることが多い。つまりは、カーディガンみたいに何げなく羽織れる。

  なんとなく見てはいけない焼跡に青いネットが被されている

 この感じ方。こちらが痛んでいるときほど、よくわかる。この一首前には、次の歌がある。

  カーテンは下にむかってやさしさを垂らしてそれがときに傲慢

 以前の私は、こういう歌をみていろいろ書くのが楽しみだったが、最近はいちいちうるさいなと思うようになってしまって、短歌の雑誌で歌の解釈を書き手が述べていると、だいたい飛ばしてしまう。
そうは言いつつ、無粋ながら絵解きすると、カーテンはやさしさをもって、「私」や「弱い存在」、「見られたくない存在」を覆い隠すということをしてくれる。が、その善意のようなものは、それ自体が「隠す」、もっと言うなら隠蔽するという暴力を行使しているのでもある。差別語狩りもそうだろうし、ポリティカル・コレクトネスのコードへの配慮もそうだろう。
ここで一首目の歌に戻って、「なんとなく見てはいけない焼跡に」という言い方の絶妙なつながりにうなずくわけである。

 ねむりゆくときに肋骨重たかり生き残ったらこんなさびしさ

 死はそばにあるようでまた死者だけのものであることそうであること

両方は同じ一連にある。具体的な事実は消してあるので、読者はいろいろな文脈や場面にかかわらせながら読むことができる。自分のこととしても、身近なひとのこととしても読めるような余地がある。むろん作者自身の病気の経験が先立つことを日頃から短歌に親しんでいるような読者は知っている。けれども、歌はそのつど、言葉の一回ごとに立ち上がる力を受け止めながら読むほうがいい。

いつからか、死がそこにある、ということを感じながら私も日々をすごすようになったからか、こういう歌がすっと入ってくる。病気でよわっているときには、自分の体、筋肉や骨が、ものとして重たく感じられるということがある。一首めは、その体感を受け止めながら、生きているということを実感している。そうして二首目のように、厳然とした死についての認識も、素直に首肯できる。

巻頭の歌を引く。

  風が好き風にさやげるものが好き胸に大きな蝶をひろげて

自分が蝶になって、風の化身になって、胸いっぱい空気を吸って。この解放感がすてきだ。いい歌だと思う。

新課程高校国語についてのアンケート

2024年10月07日 | 緊急拡散依頼
〇高校国語の新課程三年目で、そろそろ見直しがはじまるようですが、全国の高校の国語の先生を対象にしたピンポイントのアンケートをただいま実施中です。
 
 詳しくは神奈川県高教組のホームぺージをごらんください。アンケートのためのQRコードが表示されています。

 「論理国語」という科目名を留学する生徒の調査書のために英訳しないといけなくなった話など、現場の困りごとがたくさんあるようです。どんどん書き込んでほしいとアンケートの担当者が言っていました。


諸書雑記

2024年09月10日 | 
 以前書いた前文を削除しました。以下は諸書雑記。

〇 水上勉『足もとと提灯 歩いてきた道』昭和59年、集英社文庫

「若い人びとは、いま、幼稚園の数ほどもある大学へはいりたがる。」207ページ。

「華燭は一日にして消ゆるなれど、心灯は消えざるなり。」214ページ。

ふたつ、まったく相矛盾する事象にふれた小文から引いた。

〇 宮崎市定『東風西雅抄』岩波現代文庫、2001年刊

・ 人間は古代へ行くほど荒っぽかった。剣道やフェンシングは死ぬまで敲きあい、突きあいしたのであろう。相撲やレスリングは相手の骨を折り、時には投げ殺しても構わなかった。時代が進むにつれて、真剣勝負から競技にかわり、色々な規則を設けて、生命身体の危険を避けながら、勝負を決めるようになった。   91ページ

・ 欧米近世の繁栄は奴隷制度の上に立てられたものである。所謂産業革命が起り機械が十分にその威力を発揮するに至る迄、機械に代って動力を提供したのは奴隷であった。
 この奴隷制度は近世初頭より三百年に亘って継続し、十九世紀に入って表面上変形して苦力制度となり更に約百年の後に消滅するのであるが、この苦力貿易に終止符を打たせたものは明治初年日本政府が大英断を以て世界の目の前で行って見せた正義の為の奮闘の賜ものに外ならなかった。    110ページ
 
 この宮崎市定の大江卓についての文章など、将来書かれるだろう歴史小説に生かしてもらいたいと私は思うものだ。

〇 井本農一『俳句風土記 名句の跡をたずねて』昭和三十八年、社会思想社刊
 
 芭蕉門下の句を中心とした紀行文集なのだけれども、モノクロの写真がどれも昭和二、三十年代のもので、道が舗装されていないところに着目する。
  
 千々の秋二上山の前うしろ

 二上や二日の月の尖る山

 最初が北枝、そのあとが無外。今月の角川「俳句」は鷹羽狩行の追悼特集で思わず買ってしまったのだが、こういう句を何となく読みくらべてみると、江戸と現代と互角なところが、そらおそろしい。あとは本書の井本農一の選の仕方も、なかなかよくて、凡庸の人が芭蕉の句だけを引いてとろとろ書いているのとは比較にならない。

〇 けふの空にも龍のすがたの雲がゆく変幻自在は老いを誘ふ  一ノ関忠人
『さねさし曇天』2024年、砂子屋書房刊

厚木海老名座間の市民の誇るべきものは何か。たしかに相模の自慢は、相模川とその上に広がる青空と大山だ。

〇 伊東孝『東京再発見 土木遺跡は語る』岩波新書、1993年刊

 東京の川にかかる橋の写真と図面。永代橋(117ページ)。にしても、この写真の通りに目にする読者はほとんどいないわけで、観光地などでカメラを手にうろうろしている私の同年代の人々を見ていると、こういう本を種にしてみたらよろしいのではないかと勧めてみたい。

〇 窪田般彌訳、ジュール・ルナール『にんじん』昭和四十五年二十一刷、新潮文庫刊

 たぶん自分が中学生の頃に買った本と同じ時期の本なので、ぼろぼろで紙が茶色く酸化している。カバーは門田ヒロ嗣で、あらためて見るとなかなかよい。文章も、ストーリーはどうでもよくて、描写の断片に目をとめてみると、滋味がある。   

 ――先生、と、にんじんはじつに大胆に、堂々という。室監とマルソオの二人は、変なことをしてるんです!   111ページ

 つまり、あの時は、中学生の頃は、何も読めていなかったということである! それにしても、この本は三、四十年前、学校の定番の推薦図書だったのだ。

砂川文次の『越境』

2024年09月06日 | 現代小説

 なんとかこのブログについては、書くための浮揚のきっかけをつかもうと思うのだけれども、そもそもパソコンの前にあまり坐らないのだから、どうにもならない。更新しようと思いながら九月になってしまった。以前やっていたのは、手元の本とか、身辺雑記を記しているうちに、だんだん興が乗って来て、気付いてみるとそれなりのことを書いてしまっているというものだったが、この夏はあまりにも暑くてそういう気も起こらなかった。

〇 最近あまり小説は読まないのだが、砂川文次の『越境』の広告が出ていたので、いそいで買いにでかけた。「文學界」に連載されている途中から読み始めて、断続的に読みすすむうちに展開が気になって仕方がなくなって、それが唐突におわってしまったので、どうなったのか気になっていたのだが、広告をみていったん終了したのだとわかった。これは二日かけて読了した。

 そのあと同じ著者の文庫本の『小隊』も入手して、この小説の前段がわかった。時期的にはウクライナの戦争がはじまる以前に、北海道へのロシアによる現実的な軍事侵攻をシミュレーションしてリアルな戦闘場面と将兵の心理や表情を描いている。著者が自衛隊出身ということもあって、兵器や装備についての記述が異様に精細である。硝煙や血肉の四散する場面に出まかせが感じられない。一方で最後まで主人公は生き残るから、その生き延び方には、ハリウッド映画的な都合のよい偶然が多々あらわれるけれども、そういうことは、この小説の欠点とはならない。戦闘場面は、徹底的に非情で凄惨である。しかし、現実のウクライナやガザで起きていることは、こういうことなのだろうと、得心がいく。この非情さは、戦争それ自体の持っているものなのだ。小説の後半に差し挟まれる主にロシアの思想がらみの議論は、冷酷残忍な描写のみを消費することを目的とする読者を遠ざけるだろう。それにしても、『小隊』に収録されている文学賞受賞当時の初々しい書き手が、ここまで来てしまった。そこに現下の世界情勢の陰惨さが作用していることは、まちがいないところだろう。