日当たりのいい方の白梅が先に咲いて散りかけるころに、午前中は屋根の蔭になる紅梅があとから咲いて、遠くからみると紅白の取り合わせがきれいだ。もともと鉢植えの盆栽だった紅白梅を私の親が地面に生けてしまった木である。今日はそれをちょっとスケッチしてみた。あとは買い物に出かけて戻ってくると、もう夕方に近い。一日何をやっていたのか。
いまは、最近手に入れた某氏の四十年以上前の版画の原画を額に入れて眺めている。誰のものかは、値があがってしまうと困るから書かないが、そういうものが二束三文の世の中になった。油彩画も同様である。壮絶なまでの値崩れは、だいぶ前から始まった文学全集の運命と似ている。そうすると、私のやっていることは、世の中の趨勢と完全に逆を行っている。すなわち、もうからない。しかし、まあ、市場価値はなくとも、このわたくしの充足される感じは、確かなのだから、そういうことを書いてみたいと思うのだけれど、自慢話みたいな文章は、いやだな。
このところブログ読者が増えて、ここ二回ほど一週間に千アクセスをこえた。これがだいたい古い文章を読みに行っている人たちで、私の更新が遅いので仕方なしにそっちをみてみたら、けっこうおもしろいではないか、というような感じで次々と前をたどって読んでくださっている形跡がある。それはありがたいことだけれども、何もあたらしい事を出さないのは、期待にこたえないことであるだろうし、それで以下に何か書こうと思う。
以下は、諸書雑記とする。
いま読んでいるのは、岩井克人の『資本主義の中で生きる』というエッセイ集で、新聞の書評で絶賛していたから買ってみたのだが、よく練られた文章が心地よく、造本も快適で、単純にページをめくっていてうれしい。アメリカ式の企業ガバナンスの誤りを正確に指摘して、株主主権論の誤り、経営者代理人論の誤り、利潤最大化論の誤りを指摘している文章が痛快である。専門家でない者にも読めばわかる。こういう余白がいい感じがする本というのは、なかなかないのである。 ※この項加筆しました。
あと手に取って楽しい本としては、川野里子対話集『短歌って何?と訊いてみた』がある。短歌だけではなく、今後の日本文学について考えたり、自分で何かを作ったりしようとする人が参照するに値する知見が随所に散りばめられている。著者の歌集『ウォーター・リリー』は何かの賞をとったはずだが、さすがにそういう歌集を構想する人らしいバックボーンというものが、本書にはある。などと、書きながらまだ全部読んでいないのだが、私は種々の事柄に興味を持っているので、忙しいのである。
シベリアに抑留された佐藤忠良の『つぶれた帽子』にも、宮崎静夫の『絵を描く俘虜』にも、絵をかくことができたために、ラーゲリでの激しい労働を猶予されて生還できたことが書いてある。今日はNHKの「映像の世紀」をたまたま見ていたので、これを書くのだが、ドイツ人よりも日本人の方が圧倒的に捕虜の生還の割合は高い。その理由はなんだろうか。
古書で伊集院静の『美の旅人』という本を入手して、先週半分ぐらい斜め読みした。ゴヤにはじまってダリやミロなど、スペインの画家について書かれている。私は著者が晩年に週刊誌に書いていた文章は買わないが、この本を書いた頃の著者は抜身の刃物を懐にして生きている感じがあり、思う事をやさしい言葉で書いた文言の端々に奇妙な激情が滲んでいる気がする。著者は独裁者フランコに媚を売った俗物的なダリの渡世を糾弾しない。ガラという運命の女性に人生を作られ、そういう運命の女に左右される存在として一芸術家を見ている。つまり夏目雅子と劇的に結婚し、劇的に死別した自分自身の経験の一回性を、人生における女との出会いの一回性の持つ意味として痛切に経験した立場から、その思いを底にしずめながら書くということを、している。この人が人気があったのは、色川武大にならってばくち打ちのモラルということを書いたからだと思う。身辺に危険な匂いを漂わせるから、それはなかなかダンディーで、女にもてる一方の仕方である。ただし、同じことを凡人がやると身の破滅になる。
いまは、最近手に入れた某氏の四十年以上前の版画の原画を額に入れて眺めている。誰のものかは、値があがってしまうと困るから書かないが、そういうものが二束三文の世の中になった。油彩画も同様である。壮絶なまでの値崩れは、だいぶ前から始まった文学全集の運命と似ている。そうすると、私のやっていることは、世の中の趨勢と完全に逆を行っている。すなわち、もうからない。しかし、まあ、市場価値はなくとも、このわたくしの充足される感じは、確かなのだから、そういうことを書いてみたいと思うのだけれど、自慢話みたいな文章は、いやだな。
このところブログ読者が増えて、ここ二回ほど一週間に千アクセスをこえた。これがだいたい古い文章を読みに行っている人たちで、私の更新が遅いので仕方なしにそっちをみてみたら、けっこうおもしろいではないか、というような感じで次々と前をたどって読んでくださっている形跡がある。それはありがたいことだけれども、何もあたらしい事を出さないのは、期待にこたえないことであるだろうし、それで以下に何か書こうと思う。
以下は、諸書雑記とする。
いま読んでいるのは、岩井克人の『資本主義の中で生きる』というエッセイ集で、新聞の書評で絶賛していたから買ってみたのだが、よく練られた文章が心地よく、造本も快適で、単純にページをめくっていてうれしい。アメリカ式の企業ガバナンスの誤りを正確に指摘して、株主主権論の誤り、経営者代理人論の誤り、利潤最大化論の誤りを指摘している文章が痛快である。専門家でない者にも読めばわかる。こういう余白がいい感じがする本というのは、なかなかないのである。 ※この項加筆しました。
あと手に取って楽しい本としては、川野里子対話集『短歌って何?と訊いてみた』がある。短歌だけではなく、今後の日本文学について考えたり、自分で何かを作ったりしようとする人が参照するに値する知見が随所に散りばめられている。著者の歌集『ウォーター・リリー』は何かの賞をとったはずだが、さすがにそういう歌集を構想する人らしいバックボーンというものが、本書にはある。などと、書きながらまだ全部読んでいないのだが、私は種々の事柄に興味を持っているので、忙しいのである。
シベリアに抑留された佐藤忠良の『つぶれた帽子』にも、宮崎静夫の『絵を描く俘虜』にも、絵をかくことができたために、ラーゲリでの激しい労働を猶予されて生還できたことが書いてある。今日はNHKの「映像の世紀」をたまたま見ていたので、これを書くのだが、ドイツ人よりも日本人の方が圧倒的に捕虜の生還の割合は高い。その理由はなんだろうか。
古書で伊集院静の『美の旅人』という本を入手して、先週半分ぐらい斜め読みした。ゴヤにはじまってダリやミロなど、スペインの画家について書かれている。私は著者が晩年に週刊誌に書いていた文章は買わないが、この本を書いた頃の著者は抜身の刃物を懐にして生きている感じがあり、思う事をやさしい言葉で書いた文言の端々に奇妙な激情が滲んでいる気がする。著者は独裁者フランコに媚を売った俗物的なダリの渡世を糾弾しない。ガラという運命の女性に人生を作られ、そういう運命の女に左右される存在として一芸術家を見ている。つまり夏目雅子と劇的に結婚し、劇的に死別した自分自身の経験の一回性を、人生における女との出会いの一回性の持つ意味として痛切に経験した立場から、その思いを底にしずめながら書くということを、している。この人が人気があったのは、色川武大にならってばくち打ちのモラルということを書いたからだと思う。身辺に危険な匂いを漂わせるから、それはなかなかダンディーで、女にもてる一方の仕方である。ただし、同じことを凡人がやると身の破滅になる。