以下はだいぶ前に書いたものですが、この間アカウントとパスワードのつながりがわからなくなってしまって、幾度パスワードを変更してもつながらず、何度も諦めては投げだして、今日ようやくつながったところなので、根気強くこのページをのぞきにいらしてくださっている方には申し訳ありませんでした。更新がないのに日曜と月曜に100アクセスをこえているので、たぶん巡回コースに入れてくださっているのだろうと思います。ありがとうございます。当方はまだクタバッテいません。一昨日は後頭部が痛くて、どこかにぶつけたのか、覚えがないので、妻に「あなた夢遊病状態で夜中に俺をなぐったりした覚えはないか?」とたずねてみたりしたのですが、そんな訳もなく、原因がわからないので不安だったのですが、何となく腫れているし、寝ぼけて柱に頭をぶつけたことがあったような、ないような気がして来たので、「ま、いっか」と思い直してこれを書いています。
あとは、「美志」を先月出したのですが、ひと月もたつのにまだ送ることができておらず、まだ手元に残部40冊ほどあります。自室にこもると、何か書くことはできても、その他のことに体が動かないという重症のものぐさ太郎状態となって、手紙の一本も書くのがめんどうくさいのです。すみません。
諸書雑記
材料はいろいろあるのだけれども、何を書いていいかわからないので、とりあえずいつもの諸書雑記から入る。今日買った安価な古書の名前を書き出してみる。
・安東次男『花づとめ』昭和四九年五月、読売新聞社刊
古書店の街路に面した均一価格棚にあったもので外箱は変色しているが、これが岡鹿之助の絵で飾られているうえに、箱から出すと紙と製本の糊のいい匂いがするのである。変色してはいるが、黄緑色の布で製本された背表紙は手に触れて心地よく、本文とは別の用紙に印刷された三葉の挿し絵は駒井哲郎の手になった木草や花の絵である。とくに読まなくてもいいぐらいな満足感を与えてくれる本だ。
去年東京のステーションギャラリーでやっていた春陽会展のおしまいの方に岡鹿之助の大きな絵が二点ほど並べられていたが、あの展覧会は私にとっては眼福の極みとも言うべきものだった。日本人は昭和時代の日本の洋画をもっと大切にした方がいいし、誇りに思っていいと私は思う。岡の水力発電所の絵などは、近代的な設備があたかもヨーロッパの古城か古代遺跡のように描かれているのであって、画家の目は時間を超越しているということがわかる。岡の有名なパンジーの絵にしても、あの花は磨かれたアンモナイトの化石のように美が凝固した気配を持ちながら、同時にみずみずしい生きた抒情をたたえていて、まったく不思議な絵だ。ところでこの本は100円だった。
・黒田重太郎『畫房襍筆』昭和十七年六月、湯川弘文社刊
戦前の京都画壇の中心人物による「画房雑筆」である。ちょっと思い出したが、この人と何人かの画家たちが大阪の新聞社の出資でヨーロッパ美術めぐりをし、筆者は黒田で新聞に連載したものが、たくさんの挿絵入りで旅行記としてまとめられている麻布の表紙の本がある。あれなどは筑摩か講談社の文庫本にでもならないものかと思う。なかでも小野竹喬の洋風のスケッチは一見の価値がある。300円。
・三宅克己『水彩画の描き方』大正六年刊、大正十五年二月三十五版、アルス刊
巻末の広告をみると、同じ書肆から山本鼎が『油畫の描き方』を出している。ざっとめくってみると、この本の筆者はいたって平凡な気がするが、黒田、久米両先生が帰朝してから日本の洋画の画面の色ががらっと変わって明るくなったというような記述は参考になる。300円。
・小野十三郎詩集『大海邊』昭和二十二年一月、弘文堂刊
この詩集は、私は好きだ。空襲で滅び去った重工業の廃墟と周囲の海と、大阪湾一帯の水辺の植物や鳥が、靄に包まれたり、風に吹き曝されたりしている風景がイメージできる。戦後になって故国に去ってしまった朝鮮の人たちをなつかしむ口吻のある詩もいい。300円。
・尾上柴舟『紀貫之』昭和十三年刊、十六年九月再版
後半の秀歌鑑賞にみるべきものがあり、そこだけでも文庫本などで再刊に値する。500円。
・生島治郎『東京2065』昭和47年6月再販、早川書房刊
活字が小さくて読めない。が、表紙の絵が真鍋博のイラストである。中味も星新一ばりのものがありそうなのだが、読めないので仕方がない。300円。
・田中比左良『繪説き汗と人生』昭和十八年、晴南社刊
ちょっとめくってみて、モノの感じ方が、時代を隔てると、こうもわからなくなるものか、とあきれるぐらいにかけ離れている。こういう書き物と比べると、近代文学の書き手の書いたものが、どれだけ垢抜けしたものかということがわかる。戦時中の日本人の生活感覚のようなものを知るために我慢して読むということはあるかもしれないが、文章はとうてい味読に堪えない。ところが、ふんだんに収録されている著者の絵は、見ていて楽しい。500円。
・堀口大學訳、ジヤン・コクトオ『白紙』昭和二十一年、齋藤書店刊
戦後すぐで紙質がわるく、あまりよい印刷ではないが、コクトーのデッサンが六点、巻頭に収録されている。そういえば、たしか高校二年の時だったか、三年の時だったかコクトー展があって、それを東京まで見に行ったためにすっかり影響されてコクトーばりの詩的デッサンをたくさんかいていた時期があった。この本は芸術的時評集で、エリック・サティの作品への聴衆の反応のことなど、あとでゆっくり読みたい記事が詰まっている。ちらっとみた1919年5月のマチス展の感想など、すでに歴史的な書き物と言ってよいのかもしれない。500円。
〇現下の世界を見ていると、二十一世紀の人類が、二十世紀の人類よりも進歩しているとは思えない。私自身は、せいぜい過ぎし世の書物を手がかりとして、ある一つの時代に真剣に考えられたものや、喫緊の課題として見えていたものを大切に取り扱っていきたい。過去に対して傲慢になってはいけない。そういう過去への遡及のなかで自ずと養われる心構えのようなものを歴史観とか倫理というのだ。ひどい言葉は現代の情報市場にあふれているが、私はそういうものとあまりかかわらないようにしたいと思っている。
あとは、「美志」を先月出したのですが、ひと月もたつのにまだ送ることができておらず、まだ手元に残部40冊ほどあります。自室にこもると、何か書くことはできても、その他のことに体が動かないという重症のものぐさ太郎状態となって、手紙の一本も書くのがめんどうくさいのです。すみません。
諸書雑記
材料はいろいろあるのだけれども、何を書いていいかわからないので、とりあえずいつもの諸書雑記から入る。今日買った安価な古書の名前を書き出してみる。
・安東次男『花づとめ』昭和四九年五月、読売新聞社刊
古書店の街路に面した均一価格棚にあったもので外箱は変色しているが、これが岡鹿之助の絵で飾られているうえに、箱から出すと紙と製本の糊のいい匂いがするのである。変色してはいるが、黄緑色の布で製本された背表紙は手に触れて心地よく、本文とは別の用紙に印刷された三葉の挿し絵は駒井哲郎の手になった木草や花の絵である。とくに読まなくてもいいぐらいな満足感を与えてくれる本だ。
去年東京のステーションギャラリーでやっていた春陽会展のおしまいの方に岡鹿之助の大きな絵が二点ほど並べられていたが、あの展覧会は私にとっては眼福の極みとも言うべきものだった。日本人は昭和時代の日本の洋画をもっと大切にした方がいいし、誇りに思っていいと私は思う。岡の水力発電所の絵などは、近代的な設備があたかもヨーロッパの古城か古代遺跡のように描かれているのであって、画家の目は時間を超越しているということがわかる。岡の有名なパンジーの絵にしても、あの花は磨かれたアンモナイトの化石のように美が凝固した気配を持ちながら、同時にみずみずしい生きた抒情をたたえていて、まったく不思議な絵だ。ところでこの本は100円だった。
・黒田重太郎『畫房襍筆』昭和十七年六月、湯川弘文社刊
戦前の京都画壇の中心人物による「画房雑筆」である。ちょっと思い出したが、この人と何人かの画家たちが大阪の新聞社の出資でヨーロッパ美術めぐりをし、筆者は黒田で新聞に連載したものが、たくさんの挿絵入りで旅行記としてまとめられている麻布の表紙の本がある。あれなどは筑摩か講談社の文庫本にでもならないものかと思う。なかでも小野竹喬の洋風のスケッチは一見の価値がある。300円。
・三宅克己『水彩画の描き方』大正六年刊、大正十五年二月三十五版、アルス刊
巻末の広告をみると、同じ書肆から山本鼎が『油畫の描き方』を出している。ざっとめくってみると、この本の筆者はいたって平凡な気がするが、黒田、久米両先生が帰朝してから日本の洋画の画面の色ががらっと変わって明るくなったというような記述は参考になる。300円。
・小野十三郎詩集『大海邊』昭和二十二年一月、弘文堂刊
この詩集は、私は好きだ。空襲で滅び去った重工業の廃墟と周囲の海と、大阪湾一帯の水辺の植物や鳥が、靄に包まれたり、風に吹き曝されたりしている風景がイメージできる。戦後になって故国に去ってしまった朝鮮の人たちをなつかしむ口吻のある詩もいい。300円。
・尾上柴舟『紀貫之』昭和十三年刊、十六年九月再版
後半の秀歌鑑賞にみるべきものがあり、そこだけでも文庫本などで再刊に値する。500円。
・生島治郎『東京2065』昭和47年6月再販、早川書房刊
活字が小さくて読めない。が、表紙の絵が真鍋博のイラストである。中味も星新一ばりのものがありそうなのだが、読めないので仕方がない。300円。
・田中比左良『繪説き汗と人生』昭和十八年、晴南社刊
ちょっとめくってみて、モノの感じ方が、時代を隔てると、こうもわからなくなるものか、とあきれるぐらいにかけ離れている。こういう書き物と比べると、近代文学の書き手の書いたものが、どれだけ垢抜けしたものかということがわかる。戦時中の日本人の生活感覚のようなものを知るために我慢して読むということはあるかもしれないが、文章はとうてい味読に堪えない。ところが、ふんだんに収録されている著者の絵は、見ていて楽しい。500円。
・堀口大學訳、ジヤン・コクトオ『白紙』昭和二十一年、齋藤書店刊
戦後すぐで紙質がわるく、あまりよい印刷ではないが、コクトーのデッサンが六点、巻頭に収録されている。そういえば、たしか高校二年の時だったか、三年の時だったかコクトー展があって、それを東京まで見に行ったためにすっかり影響されてコクトーばりの詩的デッサンをたくさんかいていた時期があった。この本は芸術的時評集で、エリック・サティの作品への聴衆の反応のことなど、あとでゆっくり読みたい記事が詰まっている。ちらっとみた1919年5月のマチス展の感想など、すでに歴史的な書き物と言ってよいのかもしれない。500円。
〇現下の世界を見ていると、二十一世紀の人類が、二十世紀の人類よりも進歩しているとは思えない。私自身は、せいぜい過ぎし世の書物を手がかりとして、ある一つの時代に真剣に考えられたものや、喫緊の課題として見えていたものを大切に取り扱っていきたい。過去に対して傲慢になってはいけない。そういう過去への遡及のなかで自ずと養われる心構えのようなものを歴史観とか倫理というのだ。ひどい言葉は現代の情報市場にあふれているが、私はそういうものとあまりかかわらないようにしたいと思っている。