山下一路氏がなくなっていたのを私は知らなかった。まず二首引く。
テディベアの話しし終えた母さんがお父さんの部屋にいった
悪い夢をおもいだそうとして濡れたパジャマで海からあがる
こういう作品は、純度が高いし、読んで迷うところがない。ユーモアもかなしみも、さびしさもあって、いい。こういう空無の味わいを編集するのは難しいだろう。よくぞ出したものだ。これが友情というものである。
遺歌集として「かばん」周辺の友人、知人らの協力のもとに編まれた本である。2023年の4月に著者は急逝されたのだという。私は著者の第二歌集『スーパーアメフラシ』について好意的な文章を書いた覚えがある。それでこの本について、何か書きたいと思ったのだが、まずタイトルが気に入らなくて弱った。Ⅵ章のタイトルのすべてに違和感がある。私にはもし著者が自身で編集していたら、決してこういうタイトルにはならなかっただろうと思われる。編集の労をとられた方々には申し訳ないが、Ⅰ世界同時かなしい日に、Ⅱ世界同時晴れた日に、Ⅲ新しい戦争がはじまる、Ⅳジンタカタッタカタン、ⅴ舟を出す日に、Ⅵ全世界同時夕焼け、という章のタイトルがどれも好きになれない。この本のタイトルは、どうしても現在流行中の口語短歌の意匠に寄りすぎているのだ。『スーパーアメフラシ』というのは、意外であり、とぼけた味があり、世捨て人風のナンセンスへの好尚が感じられて、著者の独自性が感じられた。何しろ作者は亡くなってしまっているので、こんなことを言っても仕方がないのだが。
だれひとり殺さない驟雨のなかにずぶぬれで立っている花の役
ベッドの下にかくした尿瓶から溢れるほどのキバナコスモス
ボクの背に取り付けられた外階段とり返せない月がのぼる
おそらくは自分の過去の思い出の場面と重ね合わせて、こういう物語の一場面のような抒情の感じられる情景を世界の絵として提示している。でも、作者の抱える虚無感は深い。
生きているエビデンスが欲しいクラゲで海が覆いつくされる前に
撤去予定のもみの木にコゲラ頭を打ちつける連打連打す
地球温暖化と海の荒廃という近未来の終末的な地獄絵図を提示しながら、「エビデンス」という会社の営業の会議のような言葉をわざわざ用いて生きる意味を訴えようとするみたいな、もってまわった屈折感がここにはある。こういったところでの恥じらいが作者の作歌動機をなして、底に居座っているのである。そういうところは、決して解りやすい作者ではない。二首目の歌は、この本の後半の一連にあるのだけれども、意味のあるようなないような、それでいて底に沈められている焦燥感のようなもの、晩年の著者の思いが「連打連打」という繰り返しに入っている歌だと感じる。つまり、自分の生きる時間についての予感はあったのだ。
それロボットの作業です 斡旋でアイデンティティのこと言われる
絶望的信頼の混ざった九条に似ていてカフェオレを飲む
海外に商社でゲンパツ売ってます降りそそぐ大河に「ナマステ」
一首目は、「2040年」という小題のもとに作られている。近未来図である。ここで言う斡旋は、職業斡旋か。少しわかりにくい。二首目は、なかなか言い当てている。三首目については、作者は長く商社員だったひとで、働き過ぎで健康を害してやめたことが巻末の作者紹介から知れる。上の一、二首目は、これを改作したものがページを少しめくった後に収録されていた。
星をかぞえる仕事のこってませんかロボットに斡旋するまえの
誤差のない夢の九条をロボットが組み立てている星の夜
ここにこめられた諧謔のバネはなかなか硬質である。先に引いた方と、どちらがいいのだろうか。
アンドレ・ジッドを読んだ教室を出るキレイだったボクの先生
国道をふたりでわたり震えながら音叉になって海岸に立つ
「どうか私の顔を食べて」アンパンマンからみんなで逃げた授業中
諦めたボク等を嗤い神田川を逆上がりで出てきた裸足
こういうおもしろくて、ヘンてこりんな歌を真剣に作り続けるには、覚悟がいる。著者の子供が出てくる歌はみんないい。
春の道ころがっていく青魚ホントの友達はいない海の中には
これは小熊秀雄の童話の「焼かれた魚」を下敷きにしているのだろう。青魚という語彙がやや詩的興趣に欠けると思うが、小熊秀雄は孤独を語るに足る作者だったし、それをこういうかたちで受けてみせた筆者も人生と孤独を見つめていたのである。
※ 余談になるが、「焼かれた魚」は、むぎ書房の「雨の日文庫」の小冊子集に収録されている。私が小学校三年の時に担任の工藤先生がみんなに朗読してくれたことがあったが、昭和三、四十年頃にこの童話は一世を風靡したのだ。近年私が古書で買った小熊秀雄の童話集は晶文社から出されたもので、挿絵は寺田政明が描いていた。
テディベアの話しし終えた母さんがお父さんの部屋にいった
悪い夢をおもいだそうとして濡れたパジャマで海からあがる
こういう作品は、純度が高いし、読んで迷うところがない。ユーモアもかなしみも、さびしさもあって、いい。こういう空無の味わいを編集するのは難しいだろう。よくぞ出したものだ。これが友情というものである。
遺歌集として「かばん」周辺の友人、知人らの協力のもとに編まれた本である。2023年の4月に著者は急逝されたのだという。私は著者の第二歌集『スーパーアメフラシ』について好意的な文章を書いた覚えがある。それでこの本について、何か書きたいと思ったのだが、まずタイトルが気に入らなくて弱った。Ⅵ章のタイトルのすべてに違和感がある。私にはもし著者が自身で編集していたら、決してこういうタイトルにはならなかっただろうと思われる。編集の労をとられた方々には申し訳ないが、Ⅰ世界同時かなしい日に、Ⅱ世界同時晴れた日に、Ⅲ新しい戦争がはじまる、Ⅳジンタカタッタカタン、ⅴ舟を出す日に、Ⅵ全世界同時夕焼け、という章のタイトルがどれも好きになれない。この本のタイトルは、どうしても現在流行中の口語短歌の意匠に寄りすぎているのだ。『スーパーアメフラシ』というのは、意外であり、とぼけた味があり、世捨て人風のナンセンスへの好尚が感じられて、著者の独自性が感じられた。何しろ作者は亡くなってしまっているので、こんなことを言っても仕方がないのだが。
だれひとり殺さない驟雨のなかにずぶぬれで立っている花の役
ベッドの下にかくした尿瓶から溢れるほどのキバナコスモス
ボクの背に取り付けられた外階段とり返せない月がのぼる
おそらくは自分の過去の思い出の場面と重ね合わせて、こういう物語の一場面のような抒情の感じられる情景を世界の絵として提示している。でも、作者の抱える虚無感は深い。
生きているエビデンスが欲しいクラゲで海が覆いつくされる前に
撤去予定のもみの木にコゲラ頭を打ちつける連打連打す
地球温暖化と海の荒廃という近未来の終末的な地獄絵図を提示しながら、「エビデンス」という会社の営業の会議のような言葉をわざわざ用いて生きる意味を訴えようとするみたいな、もってまわった屈折感がここにはある。こういったところでの恥じらいが作者の作歌動機をなして、底に居座っているのである。そういうところは、決して解りやすい作者ではない。二首目の歌は、この本の後半の一連にあるのだけれども、意味のあるようなないような、それでいて底に沈められている焦燥感のようなもの、晩年の著者の思いが「連打連打」という繰り返しに入っている歌だと感じる。つまり、自分の生きる時間についての予感はあったのだ。
それロボットの作業です 斡旋でアイデンティティのこと言われる
絶望的信頼の混ざった九条に似ていてカフェオレを飲む
海外に商社でゲンパツ売ってます降りそそぐ大河に「ナマステ」
一首目は、「2040年」という小題のもとに作られている。近未来図である。ここで言う斡旋は、職業斡旋か。少しわかりにくい。二首目は、なかなか言い当てている。三首目については、作者は長く商社員だったひとで、働き過ぎで健康を害してやめたことが巻末の作者紹介から知れる。上の一、二首目は、これを改作したものがページを少しめくった後に収録されていた。
星をかぞえる仕事のこってませんかロボットに斡旋するまえの
誤差のない夢の九条をロボットが組み立てている星の夜
ここにこめられた諧謔のバネはなかなか硬質である。先に引いた方と、どちらがいいのだろうか。
アンドレ・ジッドを読んだ教室を出るキレイだったボクの先生
国道をふたりでわたり震えながら音叉になって海岸に立つ
「どうか私の顔を食べて」アンパンマンからみんなで逃げた授業中
諦めたボク等を嗤い神田川を逆上がりで出てきた裸足
こういうおもしろくて、ヘンてこりんな歌を真剣に作り続けるには、覚悟がいる。著者の子供が出てくる歌はみんないい。
春の道ころがっていく青魚ホントの友達はいない海の中には
これは小熊秀雄の童話の「焼かれた魚」を下敷きにしているのだろう。青魚という語彙がやや詩的興趣に欠けると思うが、小熊秀雄は孤独を語るに足る作者だったし、それをこういうかたちで受けてみせた筆者も人生と孤独を見つめていたのである。
※ 余談になるが、「焼かれた魚」は、むぎ書房の「雨の日文庫」の小冊子集に収録されている。私が小学校三年の時に担任の工藤先生がみんなに朗読してくれたことがあったが、昭和三、四十年頃にこの童話は一世を風靡したのだ。近年私が古書で買った小熊秀雄の童話集は晶文社から出されたもので、挿絵は寺田政明が描いていた。
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