さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

ブログ再起動

2025年01月13日 | その他
久し振りにブログ投稿を開始したら、以下のような感じで、このブログも息を吹き返した感じである。
ただ、書いていてまったく孤独なので、フォローしてくださるとうれしいです。さらに、コメントは歓迎します。
 
1月5日 ~ 1月11日 12281位 1131PV  897UU
12月29日 ~ 1月4日 15810位 888PV 689UU
12月22日 ~ 12月28日 22847位 702PV 600U

後日フォロー表示がないのを指摘していただいて、設定を直しました。

成人賀祝詩

2025年01月13日 | 現代詩
「アダージェット、
暗澹と、」(野村喜和夫)

アダージェット、は、「あ」と「と」に挟まれている。
暗澹と、も、「あ」と、「と」に挟まれている。
頭韻と脚韻だ。

あすぺりあ
あんとろありあ
あー、鯉よ来い 
恋に狂う鯉よ来い
こっちの水は苦いぞよ

 恋の水流しにあふれ「その世」かな  ※

 するすると蛇に擦る墨 紅の墨

 振り仮名の精神として赤貝が

 ゲンタシン効いてはならぬ現代詩

 金剛の富士からはずれモノマニア

 忘られてURA枯れてゆくシクラメン

カナブンの叶わぬ重し吊り下げて

 せらふぃむのせらる、せらるる、せらるふぃー

 星ひとつ裏返るとき西の恋
 
 西に恋 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

 西に来い 西行ならば銀のコネ

 まねきねこ 苦悶する友 ばば抜きで

 IUを聞きまだ死ねないと思いたり

  ※「その世」は谷川俊太郎の造語。

日高尭子『水衣集』

2025年01月07日 | 新・現代短歌
 この歌集は二〇二一年一〇月刊なのだけれども、私にとってはつい最近という感じがしている。

   百歳にて死にける母はさらさらと空の族となり春をはる    日高尭子

「族」は「うから」と読む。百歳の大往生をもろ手をあげて言祝いでいるわけではない。それは、下句の調べで伝わる。「空の族となり春をはる」は、分かち書きすると、次のような感じになる。
 
  百歳にて
  死にける母は さらさらと
  空の族と
  なり、春をはる。

 四句目が句跨(くまたが)りである。ここに屈折が表現されている。前後の作品をみる。

  いのち老いて母はさびしい縫ひぐるみ さはつてほしいさはつてほしい

  人の死をわすれ、わすれ、生きてゆくことしの春のわが忘初

   ※「忘初」に「わすれぞめ」と振り仮名。

 人の老いをみとる営みの歌の絶唱と思う。

  自然災害の歌もある。

  生皮を剝ぐごとく地を叩き降る暴雨を見たりこの夏と秋
  
  未知 狂雨 原初か未来かわからない暴雨が山を打ち拉ぎゆく

 言葉が実に的確に用いられている作品と思う。こういうデッサン力は、一朝にして身に付くものではない。

 今日はこれで寝ようと思うので、おしまいに一首引く。

  人を思ふこころが今日のわれを支ふ 崖の水仙みな海をむく
 
 お正月以来能登に関する報道が多かった。この歌は房総の鋸山などがうたわれている一連にあるのだけれども、被災地とそれ以外の場所をつなぐ言葉は、みなこのような情景なのではないかと思われた。

山下一路『世界同時かなしい日に』

2025年01月04日 | 新・現代短歌
山下一路氏がなくなっていたのを私は知らなかった。まず二首引く。

 テディベアの話しし終えた母さんがお父さんの部屋にいった

 悪い夢をおもいだそうとして濡れたパジャマで海からあがる

こういう作品は、純度が高いし、読んで迷うところがない。ユーモアもかなしみも、さびしさもあって、いい。こういう空無の味わいを編集するのは難しいだろう。よくぞ出したものだ。これが友情というものである。

 遺歌集として「かばん」周辺の友人、知人らの協力のもとに編まれた本である。2023年の4月に著者は急逝されたのだという。私は著者の第二歌集『スーパーアメフラシ』について好意的な文章を書いた覚えがある。それでこの本について、何か書きたいと思ったのだが、まずタイトルが気に入らなくて弱った。Ⅵ章のタイトルのすべてに違和感がある。私にはもし著者が自身で編集していたら、決してこういうタイトルにはならなかっただろうと思われる。編集の労をとられた方々には申し訳ないが、Ⅰ世界同時かなしい日に、Ⅱ世界同時晴れた日に、Ⅲ新しい戦争がはじまる、Ⅳジンタカタッタカタン、ⅴ舟を出す日に、Ⅵ全世界同時夕焼け、という章のタイトルがどれも好きになれない。この本のタイトルは、どうしても現在流行中の口語短歌の意匠に寄りすぎているのだ。『スーパーアメフラシ』というのは、意外であり、とぼけた味があり、世捨て人風のナンセンスへの好尚が感じられて、著者の独自性が感じられた。何しろ作者は亡くなってしまっているので、こんなことを言っても仕方がないのだが。

 だれひとり殺さない驟雨のなかにずぶぬれで立っている花の役

 ベッドの下にかくした尿瓶から溢れるほどのキバナコスモス

 ボクの背に取り付けられた外階段とり返せない月がのぼる

おそらくは自分の過去の思い出の場面と重ね合わせて、こういう物語の一場面のような抒情の感じられる情景を世界の絵として提示している。でも、作者の抱える虚無感は深い。
 
 生きているエビデンスが欲しいクラゲで海が覆いつくされる前に

 撤去予定のもみの木にコゲラ頭を打ちつける連打連打す

地球温暖化と海の荒廃という近未来の終末的な地獄絵図を提示しながら、「エビデンス」という会社の営業の会議のような言葉をわざわざ用いて生きる意味を訴えようとするみたいな、もってまわった屈折感がここにはある。こういったところでの恥じらいが作者の作歌動機をなして、底に居座っているのである。そういうところは、決して解りやすい作者ではない。二首目の歌は、この本の後半の一連にあるのだけれども、意味のあるようなないような、それでいて底に沈められている焦燥感のようなもの、晩年の著者の思いが「連打連打」という繰り返しに入っている歌だと感じる。つまり、自分の生きる時間についての予感はあったのだ。

 それロボットの作業です 斡旋でアイデンティティのこと言われる

 絶望的信頼の混ざった九条に似ていてカフェオレを飲む

 海外に商社でゲンパツ売ってます降りそそぐ大河に「ナマステ」

一首目は、「2040年」という小題のもとに作られている。近未来図である。ここで言う斡旋は、職業斡旋か。少しわかりにくい。二首目は、なかなか言い当てている。三首目については、作者は長く商社員だったひとで、働き過ぎで健康を害してやめたことが巻末の作者紹介から知れる。上の一、二首目は、これを改作したものがページを少しめくった後に収録されていた。

 星をかぞえる仕事のこってませんかロボットに斡旋するまえの

 誤差のない夢の九条をロボットが組み立てている星の夜

ここにこめられた諧謔のバネはなかなか硬質である。先に引いた方と、どちらがいいのだろうか。

 アンドレ・ジッドを読んだ教室を出るキレイだったボクの先生 

 国道をふたりでわたり震えながら音叉になって海岸に立つ

 「どうか私の顔を食べて」アンパンマンからみんなで逃げた授業中
  
  諦めたボク等を嗤い神田川を逆上がりで出てきた裸足

 こういうおもしろくて、ヘンてこりんな歌を真剣に作り続けるには、覚悟がいる。著者の子供が出てくる歌はみんないい。

 春の道ころがっていく青魚ホントの友達はいない海の中には

これは小熊秀雄の童話の「焼かれた魚」を下敷きにしているのだろう。青魚という語彙がやや詩的興趣に欠けると思うが、小熊秀雄は孤独を語るに足る作者だったし、それをこういうかたちで受けてみせた筆者も人生と孤独を見つめていたのである。

※ 余談になるが、「焼かれた魚」は、むぎ書房の「雨の日文庫」の小冊子集に収録されている。私が小学校三年の時に担任の工藤先生がみんなに朗読してくれたことがあったが、昭和三、四十年頃にこの童話は一世を風靡したのだ。近年私が古書で買った小熊秀雄の童話集は晶文社から出されたもので、挿絵は寺田政明が描いていた。

柄谷行人の『日本精神分析』&「群像」1月号全卓樹「わたしたちの世界の数理」連載第5回「多数決の数理(3)」

2025年01月04日 | 寸感
 今日は昼過ぎからパソコンの周囲に積んであった本を片付けた。掘り出した本のなかで時宜にかなう内容と思われたものが、柄谷行人の『日本精神分析』の第三章にあるナポレオン三世の政権獲得と民主主義についての記述である。昨今の国内外の情勢と照らし合わせて読むことができるような先取性と、菊池寛と小林秀雄についての簡潔な記述を通して昭和の思想を概観する見通しの良さに舌を巻いた。
この小論の眼目は、将来の民主主義の在り方として、それが独裁政治に傾斜することを防ぐてだてとして、くじ引きの原理を取り入れることの有効性を論議している点にある。

 これと併せて「群像」1月号の全卓樹による「わたしたちの世界の数理」連載第5回「多数決の数理(3)」にみえる、
「多数決はやり方次第で、単純な多数意見の反映にとどまらず、少数派の意見の確率的な反映や、知識と確信を持った人々の意見の強い反映を行うことができる。それは諸刃の剣ながら、単純多数決の欠陥を補う手段を自らのうちに内包していたのである。」
というような論考も参照するといいだろう。

 いまかかっているのは、ロッド・スチュアートの「Tonight`s the Night」。そのあとにジェフ・ベックの「The Pump」。その前はトム・ペティのアルバム「Full Moon Fever」だった。

 このところエアコンのせいもあって乾燥がひどくて、加湿器をつけていないと喉の奥がひりひりする。家の中でもマスクをしていると、いいようだ。