さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

2025年を前に

2024年12月31日 | 寸感
 尾上柴舟『紀貫之』(昭和十三年十月刊)より。

目にも見て声も絶えせぬほどなれど忍ぶるにこそ遥けかりけれ  紀貫之

その人を目にも見、声も絶えせず聞く程であるのに、その人を恋ふる心が起ると、遠方に居る人のやうな気がする。第一二三句に「近き」を云ひ、第四五句に「遠き」を云ふ。この「近」「遠」の対照は端立つて居ないのみでなく、全体の意義に無理がなく、さもあるべく考へられるので、興趣の深いものがある。秀詠とすべきであらう。」 (尾上柴舟)

その人を 目にも見る
声もきく
けれども その人はいない
いまここに 
すぐそこに 
その人はいるのに

どうしたことだろう
この遠さはなんだろう
月の光が遍満する空のはたてに
わたしの断念だけが
いま かがやく辺縁を拡げていく

みえるけれどもみえないあなた
きこえるけれどもきこえないあなたの声は
いま この世界にあふれているのに
どうしたことだろう
この遠さはなんだろう

とおくのあなたよ
あなたたちよ
わたしは私の涙を
あなたたちにそそぐ
熱と炎によって瞬時に蒸発した魂のために
わたしたちは祈らなければならないはずなのに
笑いさざめいている
わたしたちのいまがあって
どうしたことだろう
この遠さはなんだろう



雑読記

2024年12月22日 | 
 「文學界」の新年号のはじめの方から、吉本ばななと市川沙央の短篇をご機嫌な気持ちで読む。二人とも読者のメンタルを台無しにするような書き物は避けてくれているようで、ここしばらく、なかなか風邪が治らない状態の私としては助かった。吉本さんの小説を読むのは久しぶりだが、文章が熟成された印象を受ける。市川さんも快調で、この小説に出てくる主人公の女の子がとっても素敵で、うきうきしながら文字をたどる。

 円城塔の『コード・ブッダ』は、新聞で広告をみたあと近隣の本屋に行ってみたものの、店頭になかったので、そのうち出てくるだろうと気長に待って、一か月もたってようやく手に入れた。第二刷である。私は通販で新刊本を取り寄せるようなことはしない。白と黒のカバーのかかった固いかんじの本の造りが、中身に合っている。家に帰ってすぐに半分ほど読んでしまって、いったいどういうふうに終わるのだろうと、心配になった。それで別の本を読んでいた。

 斉藤環の『イルカと否定神学』は、タイトルだけでこちらの心を鷲掴みという感じの本で、私はラカンなんてわからかん、と、とっくに諦めていいたのだけれども、この本に述べられているラカンの言葉の意味はわかる。河合隼雄の箱庭療法についての本が私は好きだけれども、無理に作為をもって事に当たらないという方法には、共通する点があると思う。もっとも大きく沈黙を取り込んでいる河合の行き方と、対話を基本とする斎藤とでは治療にあたっての言語に関するメソッドが最初から異なっているわけなのだろうが。

 いま足もとからぼろぼろのコピー用紙が出てきて、それは高田宏臣『土中環境 忘れられた共生のまなざし』(建築資料研究所刊)という本の表紙のコピーである。五年ほど前に東京農大志望の学生を指導していた際に手にした本で、この本は、全国の田畑や河川改修の際の基本的な参考書とされるべきものだと私は信じている。
 昨日本屋に行ったら光文社の古典新訳文庫でダーウィンの『ミミズの研究』が出ていた。これは平凡社の本が手に入りにくくなっていたので、快挙と言ってよいだろう。全国の理科の先生はぜひこの本を生徒たちにすすめてほしいと思う。
 
 ここまで書いて思い出した。そろそろ霜が下りる時期なので、このあと玄関のサボテンを屋内に入れることにしよう。
 


 

 
 

 


 




諸書雑記

2024年12月07日 | 本 古書
 材料はいろいろあるのだけれども、何を書いていいかわからないので、とりあえずいつもの諸書雑記から入る。今日買った安価な古書の名前を書き出してみる。

・安東次男『花づとめ』昭和四九年五月、読売新聞社刊 
 古書店の街路に面した均一価格棚にあったもので外箱は変色しているが、これが岡鹿之助の絵で飾られているうえに、箱から出すと紙と製本の糊のいい匂いがするのである。変色してはいるが、黄緑色の布で製本された背表紙は手に触れて心地よく、本文とは別の用紙に印刷された三葉の挿し絵は駒井哲郎の手になった木草や花の絵である。とくに読まなくてもいいぐらいな満足感を与えてくれる本だ。
 去年東京のステーションギャラリーでやっていた春陽会展のおしまいの方に岡鹿之助の大きな絵が二点ほど並べられていたが、あの展覧会は私にとっては眼福の極みとも言うべきものだった。日本人は昭和時代の日本の洋画をもっと大切にした方がいいし、誇りに思っていいと私は思う。岡の水力発電所の絵などは、近代的な設備があたかもヨーロッパの古城か古代遺跡のように描かれているのであって、画家の目は時間を超越しているということがわかる。岡の有名なパンジーの絵にしても、あの花は磨かれたアンモナイトの化石のように美が凝固した気配を持ちながら、同時にみずみずしい生きた抒情をたたえていて、まったく不思議な絵だ。ところでこの本は100円だった。

・黒田重太郎『畫房襍筆』昭和十七年六月、湯川弘文社刊 
 戦前の京都画壇の中心人物による「画房雑筆」である。ちょっと思い出したが、この人と何人かの画家たちが大阪の新聞社の出資でヨーロッパ美術めぐりをし、筆者は黒田で新聞に連載したものが、たくさんの挿絵入りで旅行記としてまとめられている麻布の表紙の本がある。あれなどは筑摩か講談社の文庫本にでもならないものかと思う。なかでも小野竹喬の洋風のスケッチは一見の価値がある。300円。

・三宅克己『水彩画の描き方』大正六年刊、大正十五年二月三十五版、アルス刊
 巻末の広告をみると、同じ書肆から山本鼎が『油畫の描き方』を出している。ざっとめくってみると、この本の筆者はいたって平凡な気がするが、黒田、久米両先生が帰朝してから日本の洋画の画面の色ががらっと変わって明るくなったというような記述は参考になる。300円。

・小野十三郎詩集『大海邊』昭和二十二年一月、弘文堂刊
 この詩集は、私は好きだ。空襲で滅び去った重工業の廃墟と周囲の海と、大阪湾一帯の水辺の植物や鳥が、靄に包まれたり、風に吹き曝されたりしている風景がイメージできる。戦後になって故国に去ってしまった朝鮮の人たちをなつかしむ口吻のある詩もいい。300円。

・尾上柴舟『紀貫之』昭和十三年刊、十六年九月再版
 後半の秀歌鑑賞にみるべきものがあり、そこだけでも文庫本などで再刊に値する。500円。

・生島治郎『東京2065』昭和47年6月再販、早川書房刊
 活字が小さくて読めない。が、表紙の絵が真鍋博のイラストである。中味も星新一ばりのものがありそうなのだが、読めないので仕方がない。300円。

・田中比左良『繪説き汗と人生』昭和十八年、晴南社刊
 ちょっとめくってみて、モノの感じ方が、時代を隔てると、こうもわからなくなるものか、とあきれるぐらいにかけ離れている。こういう書き物と比べると、近代文学の書き手の書いたものが、どれだけ垢抜けしたものかということがわかる。戦時中の日本人の生活感覚のようなものを知るために我慢して読むということはあるかもしれないが、文章はとうてい味読に堪えない。ところが、ふんだんに収録されている著者の絵は、見ていて楽しい。500円。

・堀口大學訳、ジヤン・コクトオ『白紙』昭和二十一年、齋藤書店刊
 戦後すぐで紙質がわるく、あまりよい印刷ではないが、コクトーのデッサンが六点、巻頭に収録されている。そういえば、たしか高校二年の時だったか、三年の時だったかコクトー展があって、それを東京まで見に行ったためにすっかり影響されてコクトーばりの詩的デッサンをたくさんかいていた時期があった。この本は芸術的時評集で、エリック・サティの作品への聴衆の反応のことなど、あとでゆっくり読みたい記事が詰まっている。ちらっとみた1919年5月のマチス展の感想など、すでに歴史的な書き物と言ってよいのかもしれない。500円。
 
〇現下の世界を見ていると、二十一世紀の人類が、二十世紀の人類よりも進歩しているとは思えない。私自身は、せいぜい過ぎし世の書物を手がかりとして、ある一つの時代に真剣に考えられたものや、喫緊の課題として見えていたものを大切に取り扱っていきたい。過去に対して傲慢になってはいけない。そういう過去への遡及のなかで自ずと養われる心構えのようなものを歴史観とか倫理というのだ。ひどい言葉は現代の情報市場にあふれているが、私はそういうものとあまりかかわらないようにしたいと思っている。