いま気がついたのだが、この年私は佐藤さんの同じ歌集を二度とりあげている。ここに二回分をまとめておく。
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/03/12)
投稿日:2012年03月12日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)
透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ
佐藤弓生歌集『薄い街』(二〇一〇年十二月・沖積舎刊)
おいしいワインを飲むみたいに歌を読むということはあって、佐藤弓生の歌などはそうである。作品の基調が孤独への親しみにあり、作者は相当にタナトス願望にひたされているけれども、絶望してはいない。ひりひりとするような生きることのさびしさに、絶妙な知性と感性のバランスを持ちながら、たぶん言葉の感覚だけに支えられて日常の困難をクリアしている。
それを象徴するのが、作品集冒頭の詩人左川ちかについて書かれた文章「少年ミドリと暗い夏の娘」である。「彼女は死を予期し、彼女を溺死させかねない緑の生命力をおそれた。」左川ちかは、昭和十一年一月に二十四歳で病没した。右に引いた一首は、その文章の末尾に置かれている。
夢を脱ぐ夢をみた朝あやうさはマンハッタンのはだかのからだ
シャープペンシルかたむけるたびアメリカのあたらしき皮膚かたかた匂う
このあふれるような、言葉のイマジネーションの震える定着の姿を見よ。不確かなものを不確かなままにとらえながら、結句で鮮明な白く輝く肉体を朝の光の中に出現させる一首め。確かな手触りのあるもの(アメリカ製シャープペンシル)を、イメージの表皮とともに言葉でとらえてみせた二首めのさりげない形象化。
詩人とか作家とか、ある種の人達は、言葉のサーフィンをしながら生きることが日常化しているので、生活というものの風波を切り抜けることと、創作や詩があるということの意味が必ずしも背馳するものではない。日本の短詩型は、そういうクリエーターのようなタイプの人に相性がいいことがある。佐藤弓生の歌は、ある種の人々にとって、そうしたドアの一つであるのにちがいない。
悲しいというのはいいね、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない
神さまのこと考えてしまうのは いるのに、いない人がいるから
かなしい人は、たいていは自分がそのようであることを当然のように受け入れてしまっている。真実とか、痛くてせつないことがらというのは、赤裸々に語るのではなくて、こうやって作者のように詩の言葉でやさしく包んで、わかる人にだけわかるように差し出されるのがいいのだ。前歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(二〇〇六年・角川書店刊)と比べると、だいぶタナトス願望が濃くなっているように思うが、佐藤弓生の歌集は、繊細にひそやかに人が生きるための命の文法書なのだ。
にんにくの白いお尻を割りてゆく僅かな、まごうかたなき、ちから
恕されるなんてどうでもいいまでにママのましろの茹でたまごたち
『眼鏡屋は夕ぐれのため』
次に十八番目。
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/06/07)
脱げなくて死ぬ蛇のようわたしたちころがりまわるばかりの夏野
蒼天に組みふせられてくさはらにわたしはひとり たれも待たない
佐藤弓生歌集『薄い街』
前回に続ける。同じ一連の一首とばした次の二首を引いた。「脱げない」のは、抽象化して言うと「私」の自己同一性、自意識の苦痛そのもののことだ。そこで「組みふせられて」「ひとり」「たれも待たない」のは、そのことの孤独に耐えるしかないという、近代のおなじみの物語を再度確かめ直したことへの作者の含羞を示すものと言うべきだ。もう少し現実的に読もうとするなら、「ころがりまわるばかり」の日常生活を生きているのは、「わたしたち」の普段の姿である。この「私」はむろん〈女性性〉を帯びたものであり、その点については、また別の作品をあげなければならない。
うごかない卵ひとつをのこす野に冷たい方程式を思えり
どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です
恥丘とは不可思議の語わたしたちは海に向かってランチをほどく
三首つづけて引いた。「私」が性的な存在であるということの痛々しいまでの意味を「私」は問い続けている。性的な存在として〈女性性〉を負うことの苦しさを思うというのは、高度な自意識だ。こう書いて少し違和感がある。「海に向かってランチをほどく」というのは、性そのものを暗示しているが、実際の海の景色も同時に見えている。だから、自意識だけの詩ではない。ことばのイマジネーションを拡げる詩なのだ。野の卵は、女性の卵そのものだ。でも、読みながら野に産み付けられたヒバリのような鳥の卵の映像を頭に浮かべてよい。こんなふうに佐藤弓生の歌の言葉は、「私」の深層にあるものを掘り起こしつつ、同時に言語のイメージを拡げてゆく性質のものである。これは塚本邦雄が説いた真のリアリズムの実践と言っていいだろう。
(この文章は、浅川肇氏らによる歌誌「無人島」に掲載したものを、一部改稿したものです。)
タグ: さいかち真, 佐藤弓生
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/03/12)
投稿日:2012年03月12日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)
透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ
佐藤弓生歌集『薄い街』(二〇一〇年十二月・沖積舎刊)
おいしいワインを飲むみたいに歌を読むということはあって、佐藤弓生の歌などはそうである。作品の基調が孤独への親しみにあり、作者は相当にタナトス願望にひたされているけれども、絶望してはいない。ひりひりとするような生きることのさびしさに、絶妙な知性と感性のバランスを持ちながら、たぶん言葉の感覚だけに支えられて日常の困難をクリアしている。
それを象徴するのが、作品集冒頭の詩人左川ちかについて書かれた文章「少年ミドリと暗い夏の娘」である。「彼女は死を予期し、彼女を溺死させかねない緑の生命力をおそれた。」左川ちかは、昭和十一年一月に二十四歳で病没した。右に引いた一首は、その文章の末尾に置かれている。
夢を脱ぐ夢をみた朝あやうさはマンハッタンのはだかのからだ
シャープペンシルかたむけるたびアメリカのあたらしき皮膚かたかた匂う
このあふれるような、言葉のイマジネーションの震える定着の姿を見よ。不確かなものを不確かなままにとらえながら、結句で鮮明な白く輝く肉体を朝の光の中に出現させる一首め。確かな手触りのあるもの(アメリカ製シャープペンシル)を、イメージの表皮とともに言葉でとらえてみせた二首めのさりげない形象化。
詩人とか作家とか、ある種の人達は、言葉のサーフィンをしながら生きることが日常化しているので、生活というものの風波を切り抜けることと、創作や詩があるということの意味が必ずしも背馳するものではない。日本の短詩型は、そういうクリエーターのようなタイプの人に相性がいいことがある。佐藤弓生の歌は、ある種の人々にとって、そうしたドアの一つであるのにちがいない。
悲しいというのはいいね、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない
神さまのこと考えてしまうのは いるのに、いない人がいるから
かなしい人は、たいていは自分がそのようであることを当然のように受け入れてしまっている。真実とか、痛くてせつないことがらというのは、赤裸々に語るのではなくて、こうやって作者のように詩の言葉でやさしく包んで、わかる人にだけわかるように差し出されるのがいいのだ。前歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(二〇〇六年・角川書店刊)と比べると、だいぶタナトス願望が濃くなっているように思うが、佐藤弓生の歌集は、繊細にひそやかに人が生きるための命の文法書なのだ。
にんにくの白いお尻を割りてゆく僅かな、まごうかたなき、ちから
恕されるなんてどうでもいいまでにママのましろの茹でたまごたち
『眼鏡屋は夕ぐれのため』
次に十八番目。
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/06/07)
脱げなくて死ぬ蛇のようわたしたちころがりまわるばかりの夏野
蒼天に組みふせられてくさはらにわたしはひとり たれも待たない
佐藤弓生歌集『薄い街』
前回に続ける。同じ一連の一首とばした次の二首を引いた。「脱げない」のは、抽象化して言うと「私」の自己同一性、自意識の苦痛そのもののことだ。そこで「組みふせられて」「ひとり」「たれも待たない」のは、そのことの孤独に耐えるしかないという、近代のおなじみの物語を再度確かめ直したことへの作者の含羞を示すものと言うべきだ。もう少し現実的に読もうとするなら、「ころがりまわるばかり」の日常生活を生きているのは、「わたしたち」の普段の姿である。この「私」はむろん〈女性性〉を帯びたものであり、その点については、また別の作品をあげなければならない。
うごかない卵ひとつをのこす野に冷たい方程式を思えり
どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です
恥丘とは不可思議の語わたしたちは海に向かってランチをほどく
三首つづけて引いた。「私」が性的な存在であるということの痛々しいまでの意味を「私」は問い続けている。性的な存在として〈女性性〉を負うことの苦しさを思うというのは、高度な自意識だ。こう書いて少し違和感がある。「海に向かってランチをほどく」というのは、性そのものを暗示しているが、実際の海の景色も同時に見えている。だから、自意識だけの詩ではない。ことばのイマジネーションを拡げる詩なのだ。野の卵は、女性の卵そのものだ。でも、読みながら野に産み付けられたヒバリのような鳥の卵の映像を頭に浮かべてよい。こんなふうに佐藤弓生の歌の言葉は、「私」の深層にあるものを掘り起こしつつ、同時に言語のイメージを拡げてゆく性質のものである。これは塚本邦雄が説いた真のリアリズムの実践と言っていいだろう。
(この文章は、浅川肇氏らによる歌誌「無人島」に掲載したものを、一部改稿したものです。)
タグ: さいかち真, 佐藤弓生