
浦和RCの定例会において自己紹介をさせてもらった
1.両親、特に父について
昭和12年生まれの父憲夫と昭和16年生まれの母薩子の間に3兄弟の末っ子長男として、1975年(昭和50年)に誕生、今年の7月2日で41歳となった。同世代では、日本シリーズで惜しくも優勝を逃した広島カープの黒田投手、レッドソックス上原浩治、元西武ライオンズ監督で東尾修を父に持つ東尾理子、テニスの杉山 愛、「氷川神社の真実」で講演していただいた竹田恒泰さんなどがいる世代。
両親とも本土最南端の砂風呂で有名な鹿児島県指宿の出身。父はラサール高校を卒業後、養子先であった医者の家を継ぐため医大を目指すように言われたが、性分に合わなかったのか浪人の後ついに医大を受けることなしに勘当され、元の姓にもどってから、住み込みで4年間働き自ら学費をためて大学へ。後年その時の4年間を取り戻すために大変な苦労をしたと本人談。
父は元々経理マンであったが、40歳を過ぎたころ家を購入したのをきっかけに営業の面白さに目覚めたらしい・・・。46歳のときに不動産業者といえば埼玉では尾張屋である。その尾張屋さんで修行させていただいたのである。そうだから尾張屋さんには足を向けてねることはできない先代の古巣なのである。3年間勤め上げ独立したのが49歳の時。自分がこれから5年後に転職し新しい職場でバリバリできるかと問われれば、頭の下がる思いである。
2.幼少期~学生時代
頭髪が栗色、そしてウェーブしているのは天然であって、決して染めているわけでもパーマをかけているわけでもないのだが、数年いた社員にも若いのに髪を染めて珍しい人だと思われていたとか・・・。また見た目の通りかなりの色白。女家系とこともあり、銭湯などではよく女の子に間違われていたものである。姉にはよく「おまえは亀だ」と言われており、母からも人よりもスタートが遅く、周りがどうしているか見てから動き出すと注意されていた。こだわりが強く一つのことに携わるとずっとそこに集中するものの、ある程度のところまでいくとパッと他のことにまた集中し始めて極めようとする、若干飽きっぽいところがあったようだ。
そして、先生から言われたことは間正直に受け止めるたちであったため、中学時代のある音楽の授業で「里中君は歌うまいのね」と真面目に褒められたので、歌手になれるかと聞いたところ、「それは貴方の努力次第」と太鼓判を押された思いがして、歌手を目指して勉強することになった。高校時代はエリック・クラプトンのアンプラグドが流行っていたこともあり、もっぱらアコースティックギターで弾き語り三昧という学生生活であった。
3.迷走の20代について
20歳のアメリカに渡り音楽に打ち込むものの、一時帰国した際に、少し前に亡くなられた藤圭子さん、の子供で歌手の宇多田ヒカルのデビュー曲が池袋の大きなビジョンで流れていたのを目の当たりにし「同じ日本人でありながら天と地ほどの差がある」と才能のなさを自覚し音楽の道をあきらめたのである。
そうして、手に職をつけようと元々好きだった食の世界へ飛び込むが・・・。3年目の修行のある日、刺し盛りをつくるチャンスを与えられ得意げに刺し盛りしてみたとこと、「おまえはセンスないなぁ~。」という板前さん。私が盛った刺身をチョチョイノチョイで見事に盛り付けて見せてくれました。普通ならそこで「私も頑張るぞ」と意気込むはずであったが、私は何故か自分にはセンスが欠けているとあきらめてしまった。
そして、衣食住の中で食の次は“住まい”が生きていく上では重要。そこから不動産の勉強をして宅地建物取引士の資格を取得。不動産業会へと入り込んでいったのである。以来、今まで約17年間続いているところをみると、どうやら性分に合っていたということでしょう。
続きはどこかで。明日へと続く・・・。