韓国ドラマ 散歩ガイド~散る花と咲く花がいつもここにある~

韓国ドラマを楽しむための解説ブログです
アメーバブログ「散る花と咲く花がいつもここにある」のブログと連携になっています

李成桂(イ・ソンゲ)-朝鮮王朝建国までの道程

2015-10-21 00:40:09 | 李子朝鮮歴代王

1356年
高麗(コリョ)の恭愍(コンミン)王は 反元政策を掲げていました
これに協力したのが李成桂(イ・ソンゲ)の父李子春(イ・ジャチュン)です
その4年後 李子春(イ・ジャチュン)は 46歳で亡くなってしまい
すでに将軍となっていた息子の李成桂(イ・ソンゲ)が 後を継ぎます

李一族の出自が 女真族であるかモンゴル軍閥であるかは 諸説あり
学説においても断定することはできません

1363年
元は 高麗(コリョ)の態度が不遜だとして 恭愍(コンミン)王を廃位させようとし
1万の兵で侵攻してきます
これを迎え討ったのが 李成桂(イ・ソンゲ)とチェ・ヨンです

チェ・ヨンは 「シンイ-信義-」でイ・ミンホがカッコよく演じました

これにより 元の干渉から完全に脱却できたのですが
今度は 満州の方から女真族が攻めてきます
李成桂(イ・ソンゲ)は これを 親友チョン・モンジュと共に撃退します

1388年
高麗(コリョ)王 王ウとチェ・ヨンは 明の圧力を退けようという目的で
遼東地域を支配下に置くべく 出兵しようとします
しかし 李成桂(イ・ソンゲ)は これに強く反対するのです

実は この遠征には 李成桂(イ・ソンゲ)ら武人の勢力を削るという
裏の策略もあったのです

ところが 遠征軍は 鴨緑江(アムノッカン)河口が大雨により増水し 足止めされ
食糧の補給が難しくなり 脱走兵が相次ぎます
強く撤退を要求する李成桂(イ・ソンゲ)ですが 聞き入れてもらえず
とうとう 独自の撤退を始めます

この時 2000名以上の兵士が 李成桂(イ・ソンゲ)に続くのです

既に 高麗(コリョ)の王朝は 民に見放されており
抵抗軍を組織しようとしたチェ・ヨンのもとには ほとんど兵が集まりませんでした

王宮にたどり着いた李成桂(イ・ソンゲ)は 王ウに遠征の責任を問い
チェ・ヨンの処罰を求めます
しかし王ウは 反対に李成桂(イ・ソンゲ)を反逆者としてしまいます

交渉を諦めた李成桂(イ・ソンゲ)は 王宮を攻め チェ・ヨンを捕虜とし
共に戦ったチョ・ミンスに擁立されて 王ウの息子 王昌が王位に就きます

1389年
李成桂(イ・ソンゲ)に擁立され 恭譲(コンヤン)が王位に就き
王ウと王昌の父子は 殺されてしまいます
しかし この恭譲(コンヤン)王も 朝鮮王朝樹立の2年後
1394年に 李成桂(イ・ソンゲ)により殺されるのです

高麗(コリョ)王朝の王氏一族は 皆殺しにされてしまいます
李成桂(イ・ソンゲ)自身は そのつもりはなかったのですが
臣下たちの強い要望によって 殺さざるを得なかったとされています

この時 逃げようとして王氏の名字を変えた者もいるのです
文宗(ムンジョン)の時代に 王氏掃討の令は解かれましたが
それでも 王氏に姓を戻す者は少なかったといわれています
これにより 今でも王という名字が少ないのだという説もあるほどです

1392年
官僚層が推戴し 李成桂(イ・ソンゲ)に即位を要請し
恭譲(コンヤン)王は 追放されてしまいます

1393年
王朝交代により 国号を変更するようにと 明から要請を受けます
“朝の静けさの国”という意味を持つ「朝鮮」と
「和寧」という2つの候補がありましたが
李成桂(イ・ソンゲ)が「権知朝鮮国事」に封ぜられていることもあり
洪武帝が「朝鮮」を選び 国号となりました

明では 冊封した王を廃位し 勝手に王に即位した李成桂(イ・ソンゲ)を快く思わず
最後まで 朝鮮王としては冊封しなかったといわれています

1394年
謀反の疑いを理由に 恭譲(コンヤン)王は 処刑されてしまいます
そしてこの年 漢陽(ハニャン)への遷都が行われました
それが現在の「ソウル」なのです

朝鮮の始祖とされる李成桂(イ・ソンゲ)ですが
晩年は 後継者争いに悩まされます
「第一王子の乱」 「第二王子の乱」と続き 1408年 73歳で亡くなるまでは
念仏三昧の日々を送ったということです

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ
にほんブログ村