今日は昨年2月から始まった6回シリーズ鎌倉道を歩くの最終回でした
鎌倉時代に使っていた各地からの道を道標を訪ねながらの歩きは
歴史の勉強にもなりました
最終回は相模の国戸塚から武蔵国と相模国の国境尾根道をたどり武蔵の国
鶴ヶ峰へ向けて歩きます
鎌倉街道はここで二筋に分かれ
北へは「鎌倉街道上の道」への連絡道で
町田から小野路、関戸、府中、武蔵国分寺、所沢「菅谷の館」に向かう
東へは「鎌倉街道中道」で荏田、溝の口、渋谷、板橋を経て春日部に向かう道
JRと地下鉄戸塚駅から2分の男女共同参画センターに集合
妙秀寺の境内に「かまくらみち」と刻まれた道標がある
元は東海道吉田橋際にあったもので
安藤広重の版画東海道五十三次「戸塚」に描かれている
自動車にぶつけられて二本に折れ、柏尾川に沈んでいたのを
橋の改修時に発見され 現在はお寺の境内にある
町で見かけたマンホール
デザインは箱根駅伝戸塚中継所
2時間ほど尾根道を歩いていると昔の名残は薄れているが
地蔵堂前には「都塚」の杭がある
近くには道標もあり「北 二俣川村道、 南 鎌倉道、西 武相界道」と
刻まれている
こども自然公園で池を眺めながら早めの昼食!
午後出発してすぐに
鎌倉道と大山道の分かれ道の看板と道標
駐車場の隅に残された当時のままの鎌倉道
ゴールの鶴ヶ峰駅近くでは畠山重忠終焉の地
首塚・首洗いの井戸等の看板を見て解散です
畠山重忠は、武蔵国大里郡(現埼玉県)の武将。
頼朝の信頼を得、段葛や佐助稲荷神社の造営を任された。
永福寺跡造営の際には、庭に据えるための大きな石を一人で運んだという伝説が
残されている(伝説!怪力「畠山重忠」)。
源義経の愛妾静が鶴岡八幡宮の若宮回廊において、頼朝に舞を披露した際には、
工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した(静の舞~鎌倉と静御前)。
頼朝の死後の1205年(元久2年)、北条時政に騙され、領地から鎌倉に赴く途中、
武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で討死した。
旭区には、時政軍が一万の兵であったことから「万騎が原」という地名が残されている。
昔々の道をたどって歩くシリーズ とてもよかったです
何時も説明して下さるスタッフさんに感謝です!
今日の歩数 21,739歩
時間 3時間26分
距離 16.81km