秘蔵の国?
朝日新聞連載より
【文学のみち 伊賀
横光利一
2009年04月06日
◆「雪解」と城を後にした町
「卓二」が、もう二度と行くまいと思っていた「城を後にした町」を訪ねたのは雪の日だった。その年の春、ことばも交わせないまま別れた初恋の少女「栄子」の急死を聞いて、東京から帰省する途中で立ち寄ったのだ。彼が上京する前日に、彼女は四つ辻の雑貨屋の角のポストの影に立っていた。そのときと同じ姿勢で、「彼はポストの口に片手を差し入れてみて、そこからどこか分からぬ遠い所へ手紙を出してみたいと思った」。
これは、横光利一(1898~1947)が三重県立第三中学校(現・上野高校)時代の体験を題材にした小説『雪解(ゆきげ)』のラストシーンです。
利一が忍町(現・伊賀市上野忍町)の下宿に移ったのは1913(大正2)年、3年生のとき。その近所に住む宮田おかつという少女と親しくなります。「ビシ」というニックネームで呼んだ少女のことは友人あてのはがきにも書いていて、彼が上京した年の秋に病死しています。
寺町と東の立町通りの間の忍町の辺りが、少年利一とおかつの淡い恋の舞台だったのでしょう。このあたりの道の幅は、今も当時(大正期)と変わらないようで人通りはまばらです。冒頭に紹介した雑貨屋の前で交わる東の立町通りは、今では広く整備されて銀座通りと呼ばれています。
「新感覚派の旗手」として新しい文学の世界を切り開いていた横光が、約20年前の中学時代の初恋を題材にした作品の前半部を1933(昭和8)年に発表します。さらに12年後、敗戦直後に後半部と、前後半をまとめて加筆した『雪解』を同時に発表しています。「静かに追憶すればするほど愉(たの)しくて儚(はかな)い、菜の花の茎色に似た色合いで卓二の胸を満たしてくる」と、悲しい思い出を美的に昇華させた横光。その少女は彼の生涯にわたって心に生きていたらしく、代表作の『上海』や『旅愁』でもその登場人物にイメージを投影させています。
横光の学んだ中学校の校舎の1棟(上野高校の明治校舎)は県の文化財として保存され、今も生徒たちが使っています。本紙「声」欄(07年12月23日付)に、「校内には利一の資料室があり、図書館にも著作がある。にもかかわらず、その文章に触れたのはつい最近のことだ。もったいないと感じた……利一の文章は長い時を経た今でも、不思議な感覚を呼び覚ましてくれる」という投書がありました。「郷土の文学」の授業で横光の作品を読んだ松本咲希さん(当時、上野高校生)が90年以上も前の先輩との“出会い”の感動をつづった文章です。横光作品の魅力は、若い世代の心にも響いていたのです。
(福田和幸)
◎雪解(ゆきげ) 中学生の卓二は、下宿の近くに住む少女、栄子と親しくなる。やがて周囲のうわさになり、成績もガタ落ちになった卓二は城跡での雪合戦のときに八つ当たりして堀に転がり落ちた。その後、栄子は来なくなるがやがて栄子の母の信頼も得る。会えないときは卓二は笛を吹いて慰めた。2人の家の間に家が建ち、会うことを止められた栄子は卓二に垣根越しにバラを渡して別れを告げた。それから1年、卓二は卒業し上京する。しかし、半年後、栄子がスペイン風邪で急死したことを知り、栄子のいた町をそっと訪ねた。
○福田 和幸(ふくた かずゆき) 1948年、旧上野市(伊賀市)生まれ。今年3月まで県立上野商業高校教頭。横光利一文学会、日本文学協会会員。共編に「青春の横光利一」。3月に催された「第11回『雪解』のつどい」では実行委員長を務めた。】
ゆ~っくり、読んでみたい・・・
朝日新聞連載より
【文学のみち 伊賀
横光利一
2009年04月06日
◆「雪解」と城を後にした町
「卓二」が、もう二度と行くまいと思っていた「城を後にした町」を訪ねたのは雪の日だった。その年の春、ことばも交わせないまま別れた初恋の少女「栄子」の急死を聞いて、東京から帰省する途中で立ち寄ったのだ。彼が上京する前日に、彼女は四つ辻の雑貨屋の角のポストの影に立っていた。そのときと同じ姿勢で、「彼はポストの口に片手を差し入れてみて、そこからどこか分からぬ遠い所へ手紙を出してみたいと思った」。
これは、横光利一(1898~1947)が三重県立第三中学校(現・上野高校)時代の体験を題材にした小説『雪解(ゆきげ)』のラストシーンです。
利一が忍町(現・伊賀市上野忍町)の下宿に移ったのは1913(大正2)年、3年生のとき。その近所に住む宮田おかつという少女と親しくなります。「ビシ」というニックネームで呼んだ少女のことは友人あてのはがきにも書いていて、彼が上京した年の秋に病死しています。
寺町と東の立町通りの間の忍町の辺りが、少年利一とおかつの淡い恋の舞台だったのでしょう。このあたりの道の幅は、今も当時(大正期)と変わらないようで人通りはまばらです。冒頭に紹介した雑貨屋の前で交わる東の立町通りは、今では広く整備されて銀座通りと呼ばれています。
「新感覚派の旗手」として新しい文学の世界を切り開いていた横光が、約20年前の中学時代の初恋を題材にした作品の前半部を1933(昭和8)年に発表します。さらに12年後、敗戦直後に後半部と、前後半をまとめて加筆した『雪解』を同時に発表しています。「静かに追憶すればするほど愉(たの)しくて儚(はかな)い、菜の花の茎色に似た色合いで卓二の胸を満たしてくる」と、悲しい思い出を美的に昇華させた横光。その少女は彼の生涯にわたって心に生きていたらしく、代表作の『上海』や『旅愁』でもその登場人物にイメージを投影させています。
横光の学んだ中学校の校舎の1棟(上野高校の明治校舎)は県の文化財として保存され、今も生徒たちが使っています。本紙「声」欄(07年12月23日付)に、「校内には利一の資料室があり、図書館にも著作がある。にもかかわらず、その文章に触れたのはつい最近のことだ。もったいないと感じた……利一の文章は長い時を経た今でも、不思議な感覚を呼び覚ましてくれる」という投書がありました。「郷土の文学」の授業で横光の作品を読んだ松本咲希さん(当時、上野高校生)が90年以上も前の先輩との“出会い”の感動をつづった文章です。横光作品の魅力は、若い世代の心にも響いていたのです。
(福田和幸)
◎雪解(ゆきげ) 中学生の卓二は、下宿の近くに住む少女、栄子と親しくなる。やがて周囲のうわさになり、成績もガタ落ちになった卓二は城跡での雪合戦のときに八つ当たりして堀に転がり落ちた。その後、栄子は来なくなるがやがて栄子の母の信頼も得る。会えないときは卓二は笛を吹いて慰めた。2人の家の間に家が建ち、会うことを止められた栄子は卓二に垣根越しにバラを渡して別れを告げた。それから1年、卓二は卒業し上京する。しかし、半年後、栄子がスペイン風邪で急死したことを知り、栄子のいた町をそっと訪ねた。
○福田 和幸(ふくた かずゆき) 1948年、旧上野市(伊賀市)生まれ。今年3月まで県立上野商業高校教頭。横光利一文学会、日本文学協会会員。共編に「青春の横光利一」。3月に催された「第11回『雪解』のつどい」では実行委員長を務めた。】
ゆ~っくり、読んでみたい・・・