喜んで準備する
神は、しぶしぶではなく、進んで惜しみなく憐れみを与えてくださいます。私たちも同じようにすべきです。
ヤコブの手紙 2:8-13 新共同訳
[8] もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 [9] しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 [10] 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 [11] 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 [12] 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 [13] 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
ローマの信徒への手紙 12:1-8 新共同訳
[1] こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 [2] あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 [3] わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 [4] というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、 [5] わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 [6] わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 [7] 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 [8] 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
今日、私たちはローマ人への手紙 12:1-8 の 4 部構成の探究を、パウロの手紙の中で言及されている最後の霊的な賜物である憐れみに注目して締めくくります。 これは英語訳ではもう少し説明的です。使徒は、「憐れみを示す人」は「喜んで」そうすることであると言っています(8節)。 しかし、彼がここで使用している両方の言葉は、英語が伝えることができるよりもはるかに豊かです。
「憐れみを示す」という言葉は「エレオ」で、「神の定義どおりに憐れみを示すこと」または「神の真理と一致するとおりに慈悲を示すこと」を意味します。 つまり、私たちの目標は、神ご自身が望まれるように、惜しみなく、ためらうことなく慈悲を示すことであるべきなのです。 この用語はまた、神の「契約の忠誠心」または「契約の愛」という考えも伝えています。 神は私たちを愛し、私たちが不誠実で不従順なとき、また神の心を傷つけたときでさえ、私たちに憐れみを示してくださいます。 同様に、人々が私たちの期待を裏切ったり、私たちを傷つけたりした場合でも、私たちは憐れみを示します。
最後に、「喜んで」と訳されている言葉「ヒラロテス」は、「嫌がらない」または「すでに納得している、承認している」という意味です。 私たちは、説得したり、突きつけたり、話し込んだりせずに、憐れみを示すべきです。 むしろ、そうすることを標準設定にする必要があります。 私たちが聖霊の力の中で働いているとき、慈悲は蛇口から水が出るのと同じくらい簡単に私たちから注がれます。