草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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現代の名歌

2016-05-22 18:57:30 | 和歌・短歌
乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる(辰巳泰子)

この歌は、間違いなく名作なのに、世間の評価は中途半端な感じがある。その理由の1番は、他の作品の出来が悪いことにある。玉石混淆ということである。2番目の理由は、通俗臭である。それは、試しに冒頭に主語(たとえば「泰子は」)を入れて読んで見ると、ドラマのナレーションのような感じに読めてしまうことでもわかる。

作品の出来の良し悪しとしては、しかし見事であると言えよう。桜は、実際に見ているのかもしれないし、空想しているのかもしれないが、あざやかな景色となって、作中主体の虚無観を表現できている。濡場の相手を「ろくでなし」の1語で表現している手腕も、なかなかのものと言えよう。

ところで、作品中「も」の意味するところについてだが、合理的に考えれば「子以外の」ということで確定だ。おととし、当ブログで、作者がとんでもない表現をしたことが原因で、ずれた批判をしたという苦い経験があるので、きちんとおさえておく。1首の文脈から、他の選択肢は消え、子で確定となるのは明らかであるし、現実の辰巳氏にも子がいるそうである。

わずか1音の「も」が、この作品に奥行きを与えている。

最後に、もつながりの拙歌。

明治期の日本人がいやらしく愛想笑いし吾もまたする(椎名夕声)
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1 コメント

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辰巳泰子作に就いて (鳥羽散歩)
2018-06-12 15:04:42
 「わずか1音の<も>が、この作品に奥行きを与えている」とは、初歩的な指摘ながらも、的を得た指摘です。ところで、辰巳泰子さんの件の一首に就いてもう一言申し上げますと、下の句の「桜終はらす雨を見てゐる」という十四音にも、あなたの鋭い鑑賞力が及ばなければなりません。つまり、作中主体は、ろくでなし男に乳房を含ませる以前の自らを「桜」だと思っているわけで、件のろくでなしに乳房を含ませた事によって、自らの桜の時期が、即ち、清純な時期が終わったと思い、過ぎ去った時期をしみじみと哀惜しているのでありましょう。自らの青春を惜しむ気持ちと、桜の季節を過ぎて行くのを惜しむ気持ちとが、ダブルイメージを成していて、なかなかの傑作と思われます。私のブログ「詩歌句誌面」にもお出で下さい。
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