草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

HPはhttps://shiinayuusei-1.jimdosite.com/

僕の短歌が新聞に引用された

2025-01-30 18:01:44 | 和歌・短歌

僕の歌集からの引用を発見した。

大辻隆弘さんが日本農業新聞に引用してくれたもので、新聞発行日がなんと10か月前の2024年4月1日。

この新聞は全国の農業関係者や役所が購読しているので、かなりの部数発行されているはず。

紙媒体への引用は僕には初めてのことで、引用されても僕に通知されないことくらいは知っていたものの、どこかから風の便りで伝わってくるかと思っていた。

今日なんとなくエゴサーチしてなければ、僕は死ぬまで知らなかっただろう。

 

僕のブログは、自作の解題を兼ねておりまして、今回引用された歌については下のリンクから御覧になれます↓

 

https://blog.goo.ne.jp/shiinayuusei/e/b171ac4db5f13243fe616bb62355c980

(ページタイトル「まんまの歌」)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

買わなかった歌集歌書

2025-01-27 15:17:38 | 和歌・短歌

何十年も短歌を書いていたら、ずいぶん沢山の歌集を購入しただろうと思われても不思議はないが、たしかに沢山の歌集歌書を読んだけれど、買ったことがある著書となると下図にまとめた程度である。
1人や2人はもれているかも知れないが、一般的に「普通1冊以上は持っているだろう」ということになっている古今和歌集、石川啄木、高野公彦、穂村弘、松村正直、森本平、斉藤斎藤、永井祐、吉川宏志は1冊も買ったことがない。
穂村弘の著書は、まだ氏がさほどもてはやされていなかった頃に、地元の図書館で購入してもらったものを読んだ。
表現上参考になるとは思ったが、それ以上ではなかったということだ。
表現と言うと誤解を受けそうだから言っておくが、昔の言葉や方言で書いたら、通じない又は通じ難いという理由であり、表現を工夫しても内容が変わる訳ではない。表現は必ず平明でなければならず、平明じゃない短歌は認められない。


 

上図で三角印を付したのは、世の中でずいぶん話題になっているので、一応おさえておこうという動機から購入したもの。
若い頃は、高価な歌集を購入することに慎重だったけれど、最近は大人買いする場合もある。

 

歌集の批評を書くつもりがあれば、買う買わないは別として、どこかに引用された短歌について、原本を確認することなく書いてしまったらまずい。
短歌研究2023年10月号の小池光特集について、mixi日記に次のように書いたことがある。

 

短歌研究10月号の企画の執筆陣に対して懸念があることを記しておく。
本稿で紹介した5人中堂園を除く4人は「日々の思い出」から作品を引用している。紹介しなかった寺井龍哉、相田奈緒、花笠海月も「日々の思い出」から引用している。しかし誰ひとりとして、日付けを付していない。「日々の思い出」は日付けを付した歌群で構成された歌集と言われているので、7人が引用した作品群にひとつも日付けが付してないのは、意図的に外した可能性があるのではないか?
なお、堂園も8月号では「日々の思い出」から引用し、日付けを付していない。偶然日付けの無い歌だったのかも知れないが疑問が残る。
日付けは詞書き同様作品の一部だから、外して引用するのは良くない。

 

上記mixi日記を書いた時点では、小池光の「日々の思い出」を僕は読んでなかったが、その後読んでみたら、やはり原本には日付が付してあった。

その点、僕はちゃんとした評論を書くつもりが無いので、このブログなどで、どこかから引用した短歌について、勝手なことを書いている訳である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おじさん構文についておじさんより

2025-01-15 09:35:00 | 和歌・短歌

2022年に「おじさん構文に悩まされる」という話で世間が盛り上がった。
さっさと業務の指示でもすればいいのに「元気かなあ。何か困ったことはないかなあ」と言われるのが、若者は嫌なのだそうだ。友達じゃないので元気かどうか聞くな。困ったことは、聞かれなくても遠慮無く言うので、改めて聞かれると返事をするのが煩わしい。

もちろん時代が変わったということだが、昔だって流行の考え方というものはあり、しかし昔の若者の内知性派は、同時代の若者文化に対して批判的な考えは持っていた。
何を言いたいかと言うと、現代の若者には知性派がいなくなって、皆さんマニュアル人間になってしまったんじゃないか、ということ。
あるとき、某企業の担当に「馬鹿」と言う語を含んだメールを送ったら、その上司から返信が来て「再度このようなことがあったら取引をしないし、司法に訴える」と言う。いわゆるカスハラ(カスタマー・ハラスメント)の案件として整理されたようだ。
僕は、これこれこういう訳で担当の受け答えは合理的では無く、そのせいで僕が迷惑している旨を説明すると同時に、感情的な発言について謝罪し、一件落着となった。
先方はカスハラ案件でボールを投げたが、僕は感情案件としてボールを投げ返した訳である。面倒臭い時代になったものだ。マニュアルが間違っているという反省が無い。

それだけ余裕が無い時代になったということだが、昔だって「多くの事件を短時間で処理した検事が出世するんだってよ」という噂話はあった。しかし、そのことを批判することを忘れてはいなかったけどね。

ちなみに、冒頭のおじさん構文に対しては、無視すればいいんですよ。おじさんから見たら、君(若者)は赤ちゃん同然だから、無視して「ほぼ順調です」等業務連絡の言葉を返せばよろしい。

逆に、そのことがおじさんからの愛を受け止めたことになるのです。

 

ところで、上記で「馬鹿」の語が誹謗中傷で使われるケースと、批判の意味で使われるケースとがあることを書いたが「びっこ」の語も身体障害者を意味するケースと、単に状態の形容であるケースとがある。

短歌は1句中の音数に制約があるので、単に状態を形容する意味として「びっこ」の語を使用する。不完全なマニュアルにより「差別語の使用により失格」と言われないか戦々恐々である。

なお、第2句に込めたのは、表現の問題ではなく、物語の問題だということはおことわりしておきます。それは連作を読まないとわからないことですが。

最初の原稿では全く違う形だった作品が、推敲の結果下記のようになったのです。

 

犬ならばびっこジジイになったあと散歩をさせてやれないゆえに(椎名夕声。今回が初出)

 

(1月21日記す)

上記の歌を今後紙媒体に初出させる際に、別の語句にすることになった。それは世間からのプレッシャーに負けたということではない。僕は無理してでも闘う方向を選ぶ人間である。それなのに、なぜ別の語句にするかと言うと、問題が実は複雑であり、僕の人生で経験した意味と、辞書にかかれていることが合致していないことに気付いたからである。

わかりやすく言うと、不必要に方言で歌を書くつもりは無いということである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短歌研究の訂正記事

2024-12-24 20:05:29 | 和歌・短歌

短歌研究1月・2月合併号に僕の歌集に関する訂正記事が載った。
本来であれば12月号の「過去1年間の歌集総覧」という一覧表に載るのが当然なのに、短歌研究社に歌集を贈呈しなかったためだろうか、漏れてしまったからである。
当然載るべきという意味は、1年前同誌1月号に当該歌集の広告が載ったからである。

以前このブログの4回前に書いたが、どの雑誌の編集部にも歌集は贈呈しなかった。そのブログ記事では、これから歌集を出す人は贈呈しなさい、と書いたのだが、贈呈しなかったことは、僕の秘かな自慢である。
短歌研究誌は長い年月定期購読し、今年の夏に定期購読をやめたのだが、編集部に歌集を贈呈するという発想は浮かんだことがなかった。これは、あとから考えると不思議なことだ。
同誌には「歌集歌書評・共選」という欄が昔からあり、複数人の歌人が評を書いている。問題なのは「共選」の意味するところである。業界のやり方はさておき、一般人の受け止めは、複数人の歌人が共同で、もしくは分担して評を書くということだ。なので、編集部の音頭取りが不可欠であり、仮に評を書いて欲しい歌集があるなら、編集部に送れば、希望が叶う可能性があることになる。
なのに僕は「共選」の意味を考えてみることもなかった。編集部に送るようにという説明が一切無かったからである。

この原因はふたつ有り得る。
ひとつ目は、単にボーとしていたからであり、もうひとつは「知らないということが最適解」だからである。
例えば、裸足で砂浜を駆けて行く人は、広い砂浜の1箇所に割れたガラスが埋まっていることを知らない。知っていたら、気分良く駆けることはできない。
それと同じで、変な誘惑に惑わされることもなく、僕はどの雑誌の編集部にも歌集を送らなかったし、今それを自慢している。

業界のやり方を、僕は知らないが、ある疑いを持っている。
歌集評というやつが全ての短歌雑誌に載っているが、あれは雑誌社の差し金ではなかろうか。全部とまでは思わないが、ほとんどの歌集評は編集部から「○○という歌集について評を書いてください」と依頼されて書いているのではなかろうか?
それが事実なら、歌集評にはそんなことはひと言も書いてない訳だから、読者への裏切り行為である。評を書いた歌人の自発的意思でやっていると思っていた。
さらに言えば、雑誌社どうしで相手の出版物を誉めあっているとしたら、詐欺に近い行為と言えるだろうが、真相は知らない。

さて本題だが、何回か前のブログで「短歌の真髄は認識にある」と書いた。直観による宇宙の把握ということだが、凡人が直観だけで宇宙を把握できるかどうかについて、世人と同じく僕も疑問を持っている。じゃあ、やはり理論的なものが必要なのかというと、それを否定しないが、必須とは考えていない。教典を脇に置くだけで良いと思っている。千年以上前に確立し、千年以上多くの人が拠り所とした教典をである。

直観と直感とは似たり寄ったりだが、例えば地球温暖化を直感的に理解できるグラフィックとして下図がある。1980年代までは涼しかった地球が、この20年ほどの間に急激に温暖化して来たことが一目瞭然である。
この図は、しかし細部が嘘だから、よそで使用しないようにお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やれやれ歌集広報

2024-11-11 12:51:14 | 和歌・短歌

1年前に第一歌集を刊行してから、最低限の広報はしたつもりだった。

1月には奥村晃作氏がツイッターに取り上げてくださり、3月には山田航氏が現代短歌誌に取り上げてくださり、順調な滑り出しと思っていたら、それで終わりだった。

所属する短歌人会の月刊短歌人には、色々あって広告を出さなかったので、仲間内ですら知らない人が多いだろうことに後悔を禁じ得なかった。

しかし「うた新聞11月号」に下図のとおり紹介していただき、感謝しているところです。

歌集の価格は春時点のもの。

 

(備考)

著者取り次ぎはありません(著者取り次ぎだと消費税分130円ほど安くなりますが、送料がそれを上回ります。アマゾンは送料無料)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする