(短歌1)
なぜ避難したかと問はれ「子が大事」と答へてまた誰かを傷つけて(大口玲子)
この歌の場面は東日本大震災に伴う原発事故の少し後、原発から遠い場所へ転居したもの。
被災地に居合わせた人々どおしでも意識の違いもあり、立場の違いもあることから、現地を離れた人は気まずい思いを強いられる。
この歌が紹介された短歌研究3月号は、東日本大震災から10年の特集を、79ページと、全体の3分の1もの大きさで組んでいる。
執筆者は27人に及ぶが、梅内美華子の文は意味が不明確だった。
(引用はじめ)
2021年のいま、新型コロナウイルスの感染拡大の中で、差別や○○警察といった糾弾が生まれている。不安やストレスが他者への厳しい視線となり追い詰めてゆくのだ。
(引用おわり)
この引用箇所の中で使われている「○○警察」という語句は、当初「自粛警察」という形で使われ出し、その後バリエーションがついたものである。新型コロナの拡大を防ぐためには、人と人とが距離を取る必要があるので、不要不急の外出の自粛が呼びかけられた。店内で飲食する形の店には役所から自粛要請があったが、持ち帰りタイプの店舗は感染の危険が低く、逆に生活に必要な営業と見られたので、自粛要請がなかった。ところが、持ち帰り店に「営業をやめろ」と匿名の貼紙がされ、世間は貼紙をした人をからかって「自粛警察」と呼んだのである。そういう出来事が頻発し、なかには営業妨害として訴える事例もあった。逆に周辺住民が店を警察に告発する、というトンチンカンなこともあった。店側と一部住民とが憎み合う状態になったのである。
都会と田舎も不穏な関係になっている。
僕は千葉県の中でも田舎の方に生まれ育った家があり、現在は千葉県のやや都会っぽいところに住んでいるが、新型コロナの報道や発表を見るとき、同じ一覧表に順不同で出てくるので、自動的に故郷の状況も目に入ってくる。田舎はさすがに感染者が滅多に発生せず、最近1か月間に1~2人である。去年春からの合計は、かつてクラスターがあったことから100人くらいになるかもしれないので、都会の人からしたら「日本中どこでも危険なんでしょう」と思われるかもしれないが、事実としてはほとんど汚染されていないのである。
おそらく、日本中で都会と田舎で意識のずれがあるだろう。
都会の人は一年ぶりに老親の顔が見たいから帰省したいと言い、田舎ではそういうことならその老人には2週間介護サービスを提供したくないと言う。都会の人は、救いを求めて故郷の友人に顛末を話すが、逆に諭されることになる。田舎からしたら、都会からはできるだけ来ないでもらいたいのである。
先程の持ち帰り店と住民の関係にも共通部分がある。
○○警察は持ち帰り店を糾弾し、世間と店とは○○警察を糾弾する。
それでは、梅内の文ではどちらの糾弾のことを指しているのだろうか?
また、追い詰めてゆく主体はどちらだと言っているのだろうか?
いずれも不明確である。
一応、梅内は世間の側に立ち、○○警察を糾弾し、○○警察が持ち帰り店を追い詰めてゆく、と言いたいのだろうと推測はできる。
しかし、そのような曖昧な状態では、帰省のエピソードについても、この人はきっと田舎の人を憎むのだろうな、という憶測につながってしまう。
(以上は「事実はどうなのか」という趣旨の考察であり、○○警察は悪く帰省者は悪くないということに間違いはない。)
(短歌2)
こんな奴東京湾に沈んでる荒井注似が隣りへ笑う(椎名夕声。短歌人2021年2月号)
コメディアンだった荒井注に似た級友が僕のことを評した言葉が「こんな奴東京湾に沈んでる」だった。
世の中は「キチンとした人」と「はずれ者」しかいないという法則があるのだろう。
なるほど僕ははずれ者に違いないが。だからといってチンピラどうしの喧嘩で東京湾へ沈められる、というのは、いかにも論理の飛躍がある。
そこには差別意識の芽があるだろう。
差別されることもつらいだろうが、実は差別されないこともつらいのだ。
つまり、その人の本質ではなく、外形により差別されない側として分類されたに過ぎず、外形を変えた途端に差別されることになる、という馬鹿げた現実をつきつけられるからだ。